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いろいろなエピソードを綴っていきたいと思っています。
Episode in my life.

2005年制作 文化芸術賞受賞

文化芸術賞 ●表彰式を終えて ●機械音痴 ●JR事故 ●私の休日 ●親の心子の心 ●頑張らなくっちゃ!! ●第16回リサイタルを終えて 国民文化祭を終えて ●我が家の秋 ●冬ごもり

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2003年制作
 徒然なるまま

2004年制作
 15周年記念リサイタル

2005年制作
 文化芸術賞受賞
 

2006年制作
 ヴェガ誕生コンサート
 

2007年制作
 エッセー集出版

2008年制作
 初めての指揮者体験

文化芸術賞

 

 1月13日、早朝6時、就寝中に電話の呼び出し音で目が開いた。
 「新聞見ました!! 文化芸術賞ご受賞お目出度うございます。」

 昨年(2004年)12月中旬に「社団法人・福井県文化協議会」の事務局から、文化協議会の各賞の中では最も権威のある賞とされている「文化芸術賞受賞内定」の連絡は受けていた。

 大正琴を弾き始めた22年前の頃は、大正琴はまだまだ社会的に楽器としての認知をされていなかったので、「いつかきっと大正琴がギターやマンドリンと同じ弦楽器であることを証明してやるぞ!!」と肩に力が入っていたが、最近は、演奏家の最大の喜びは、舞台で自分の納得のいく演奏ができ、且つ、お客様から共感と賞賛の拍手を頂くことである、と思うようになってきたので、12月中旬に文化協議会から内定の連絡を頂いた時には、嬉しいことには違いないが涙がでるほどの感激は覚えず、自分でも不思議なくらい冷静に受賞内定の事実を受け止めていた。
 それに万一「取り消し」ということにならないとは限らないと思い、生徒さんにも誰にも内緒にしていた。

 ところが、新聞発表後、お祝いの電話は鳴りっ放し、内閣官房副長官を始め、文化団体の重鎮の先生方から祝電が次々届き、身に余るお褒めの内容のお手紙までもが届き始めると「これは、大変なことなのだ!」と思い始め、『大正琴みたいな品の無いものを続けるなら親族会議を開きます…。』と、身内から叱られたことまで思い出し、祝電を読んでは涙また涙、お手紙を拝見しては涙また涙、心の底からの嬉しさが時間と共に加速し、昨年の冷静さはどこへやら、2005年1月13日は記念すべき忙しい一日となった。

 でも、この受賞は偏(ひとえ)に「大正琴は弦楽器」という私の強い想いに応えて、音楽監督の三寺幸雄さん、奥下順造さんが夫々のお立場で「弦楽器としての大正琴の響き・存在」を追求して頂いた賜物と思います。
 そして、がむしゃらに突き進む私を信じひたすら付いてきて下さった生徒の皆さん、リサイタルの度にご協賛頂いた関係者の皆様、会場まで足を運んで応援して下さるお客様方、伴奏の皆様を始め、会場スタッフの皆様、そのほか大勢の皆様の後押しで、こんなに立派な文化芸術賞を頂くことになりました。この場をお借りして改めて篤く御礼申し上げます。本当に有り難うございました。

 2005年2月1日に表彰式が福井市宝永3丁目の葵会館(http://www.aoi-kaikan.jp/)で行われます。その時の模様をホームページで公開したいと思います。<表彰式の様子へジャンプ>

 それでは又、この部屋でお目にかかりましょう

2005年1月15日

表彰式を終えて

 

 2005年2月1日、前夜からの雪は収まらず、吹雪の中を美容院に行った。敬意を表して和服で式に臨もうと思ってのことだが、着付けが終わって会場までが大変だった。車までは長靴、車の中で高下駄、会場の中で草履に履き替えるという有様でした。

 式が始まって県文協会長、県教育長…と挨拶、祝辞の続く中、私は降りしきる窓の外に目がいった。「…昨年(2004年)1月26日、父の葬儀のときも天候が大荒れに荒れ、道路は圧雪でツルツルに凍り,そのような悪天候下でも500名を超える参列者の方々が父との別れにいらして下さった。まるで空までが父との別れを悲しんでいるようにだった。

 今日のこの吹雪はなんだろう?父が嬉しくて逢いにきているのだろうか?思えば、父は私の記事が新聞に出る度に福井駅に赴きキオスクの全ての新聞を買い占め、自分の友人達に配っていた。ああ…もう一年早くこの賞を頂けていたら…もう一年生きていてくれたなら…。」そんな贅沢な思いが脳裏を過った。

 大正琴を始めて22年、三寺幸雄さん、奥下順造さんをはじめ、大勢の人の支援と好意に恵まれすぎるほど恵まれて、一心不乱に大正琴の在り方(奏法・編成等)を追求してきた。誰よりもどこの流派会派の方々よりも私たちは「弦楽器」としての大正琴の研究に挑み続けてきたと自負している。このことを知っていて下さる多くの関係者の方々から「おめでとう」と心からの祝福を受けた。

 あらためて、感謝の意を捧げたい。

 でもここが終点ではない!! 

 これからが本当の私たちの目指している大正琴の世界がある。今、それが目前に実現しつつある。いずれこのホームページで発表する日が来ると思います。これには三寺幸雄さんの執念とも思える努力と研究がありました。発表する日をおたのしみに!!!

 それでは又この部屋でお目にかかりましょう。

2005年2月11日

 

<2月1日の表彰式の様子へジャンプ>

機械音痴

 

 今日は第16回リサイタルの曲、ビギン・ザ・ビギンの録音をしました。今回はラテン特集で、各クラスともアンサンブルで、ラテンのスタンダードナンバーと童謡をラテン風に編曲したものを演奏するからです。アンサンブルの場合一曲録音するにしても、七部合奏ならば、七つのパートを一人で別々に録音し、それを重ねて一曲が完成します。しかもお手本として生徒さんに聞かせますから録音には全神経を張りつめます。終わりに近づくにつれ、集中力が途切れがちになり、飴玉を舐めたり、コーヒーを飲んだり、ファイト!!と自分自身にかけ声をかけたりで、三寺音楽監督のOKが出るまで大格闘です。でも完成した「西沢純子のビギン・ザ・ビギン」を聞くと『素晴らしい!!私って天才じゃないかしら!!』と毎回思います。こういう能天気な幸せを味わえるから、どんなにしんどくても私は録音が大好きです。又、機械音痴の私は、目の前にずらりと並ぶ録音機材を自在に操って録音する三寺さんも素晴らしい!!と思います。しかし三寺さんは『西沢さんに褒められてもなぁ……』と当惑気味。

 分かります!! 分かります!! これには他人様には言えぬ(こうして書いてはいますが?)恥ずかしい過去があったからです。何しろ私は名代の機械音痴!自分のホームページを開くまではパソコンは天敵の中の天敵だと信じていました。

 西沢純子大正琴スタジオ開設の時、パソコンを購入するため調査にでかけた三寺さんに、私は単に会計係として予算を確かめる為にノコノコと付いて行きました。三寺さんがお店の方と常人には理解不能用語で会話している傍で、「あぁ退屈…来なければよかったぁ…。」と思いながら、ふとパソコンの画面を見ると、「小蝿」と思しき物がヒュルヒュルヒュルと画面狭しと許りに飛び回っているではありませんか?

「まぁ男の人って無神経ね、邪魔に思わないのかしら?」

ハンカチーフで追い払ってあげようと、親切にも立ち上がって、今まさに叩こうとしたら、何と!!!「小蝿」ではなく小さな矢印でした。(パソコンをご使用の方ならマウスを操作するとポインターが画面上を動き回るのをいつもご覧になっている筈です。私は当時はパソコンについて全く経験も知識もなく、このような勘違いをしたのです。)私は振り上げたハンカチーフのやり場に困り、クーラーが効きすぎている寒い店内で額の汗を拭く真似をしながら、又椅子に座りました。一瞬、店員さんが、「ん?」という怪訝そうな顔をしました。私は椅子に座ってから本当の汗が出てきました。帰りの車の中でその話をしたら、三寺さんは大笑いして事故を起こしそうになりました。それ以来機材の買い付けには三寺さんが一人で出かけています。

 でもそんな私が今こうしてコーヒーブレイクの原稿をパソコンで書き、あまつさえメールでホームページの管理者宛に送稿しているのですから感無量の思いです。将に、私自身が十年一昔を体現しているのです。

 それでは又この部屋でお目にかかりましょう。

2005年3月8日

JR事故

 

 29日金曜日、朝からシトシトと悲しみの雨が降り続いている。尼崎の転覆脱線事故は死者107名となる大惨事となり、負傷者は461名となった。事故の原因は様々な専門家がいろいろ述べているので、今ここでそれを論じるつもりはないが、利益追求、時間短縮のシステムを要求し作り上げてきた幹部の方達の責任は大きいと思う。
 お亡くなりになられた方々とそのご家族には、ご冥福を祈り、心からお悔やみを申し上げたい。又、重傷の方が150人もおられるらしい。後遺症が残らない事を切実に念じます。

 私も12歳のとき医者の不注意から左目を失明した。小学校5年の頃に後天性の軽い斜視になり、将来を心配した両親は、当時日本一の名医と言われた岐阜県のS医師に診察を依頼した。診察は3分くらいで終わり「15分くらいの手術で治りますよ」と言われた。そんな簡単に治るならとすぐ手術を依頼した。
 手術室にはS先生の他にノートを抱えた学生風の若い人が2人いて「勉強させて頂きまーす」と挨拶した。左目に局部麻酔の注射が打たれた直後、S先生の右手が痺れて「だらり」となり、S先生が「僕は帰る。簡単な手術だから君たちでも出来る。任せた。」と言うなり部屋を出て行ってしまった。私は不安になった。父は家族待機室にいて連絡が取れない。日本一の名医と言われているS先生の手術を受けるために福井から出てきているのである。「父に相談…」と言う間もなく、二人の若い医師(研修生?)は手術を始めてしまい、それは拷問に近い痛さであった。麻酔が打たれていなかったのではないかと思うくらいの、気が狂うくらいの痛さで、何度「もう止めて!!」と叫びまくったか分からない。15分のはずの手術が1時間10分かかり、その間、二人の若い医師同士が「このカルテ違うんじゃないの?」「この筋肉を引っ張ってみようか?」と話し合っていた。私は「この手術は失敗するな!」と思った。手術が終わった時は痛みからの脂汗でレザーのベットに脂汗の水たまりが出来ていた。看護婦さんが『おしっこかと思ったら脂汗だわー!」と驚きの声を上げていた。

 その夜は50年振りの大雨に見舞われ、長良川が氾濫した。両側に砂袋を置き顔を固定し、木造平屋の病室で寝ていた私に、近くの三階建ての公民館への避難命令が出た。父は私を背負って腰まで水に浸かりながら避難し、公民館の木造机を集めて私を寝かせた。包帯でグルグル巻きの私の頭を動かないように支えながら、父は深いため息を付いていた。私はS先生が私の手術をせずに若い二人に任せて帰ってしまったことは、言ってはならないような気がしていた。公民館の机を集めて寝ている私を見ているだけでも深ーいため息を付いているのに、更に追い打ちを掛けるようなことは言えないと思った。

 今ならそういう場合断じて手術を断る。しかし当時はまだ12歳であり「お医者様」の時代だった。結局私の失明は災害の所為となった。

 家に帰ったら母が「あらー純子ちやん!お父さんが電話で顔が腫れてしまって「お岩さん」みたいになってしまった!と言うから心配したけど腫れもとれたし、ちっとも今までと変わらんわ!目は二つあるから一つぐらい、いいじゃないの!あんたはなんでも出来る子だから神様が将来「天狗」にならないようにそうしたのよ。そうでないと不公平でしょ!」とケロッと言ってのけた。能天気な母であるがこういう時は役に立つ。変に同情されるよりこちらも肝が座る。「そのとおり」と思うことにした。それから今日まで目のことで困ったことも不愉快な思いも一度も経験したことが無い。母の御陰である。

 私はたかだか目を一つ無くしただけです。

 しかし、今度のJRの事故でたった一つしかない、何にも替え難い大切な生命を奪われた方々の無念の想いと、ご遺族の方々の筆舌に尽きぬ苦しみ、悲しみを思うと、私の胸は抉られこの不条理な事故に対する怒りを禁じ得ません。
 改めてご冥福をお祈り致します。

 それでは又この部屋でお目にかかりましょう。

2005年4月30日

私の休日

 

 第16回西沢純子大正琴スタジオリサイタルで生徒さん達が演奏する曲のお手本用の録音がやっと完了した。
 ラテンのスタンダードナンバーと童謡をラテン風に編曲した曲を、それぞれ7部〜8部のアンサンブルに編曲したものです。各クラス共、生徒さん達は夫々自分のパートだけ練習しますが、お手本曲を聞き、曲全体のイメージを分かって練習するのと、そうでないのとでは表現に大きな違いが出るからです。でも録音する私の方は大変です。1曲録音するにしてもアンサンブルの場合7パート〜8パート録音してやっと1曲完了!。しかもお手本だから全神経を集中します。本科の先生達用の曲以外はやっとやっと終了しました。バンザーイ!!

 今日は本当はスタジオヘ出なければならない日だけれど、疲れが澱のように溜まっているのでサボることにした。目が覚めたのは10時。顔を洗うため廊下を歩いていたら。風邪を引いた寝起き姿の山姥が横切るのがガラス戸に写った。『ん!!!』見間違いかと立ち止まってよくよく見れば何と私自身!!。ガラス戸は真を写す、まことに残酷なり!! これは疲れが残っている証拠と思いそのまま又布団に直行。11時まで寝て、もう一度ガラス戸の前にたって「ニッ!」と笑ったら今度は風邪引き山姥が背後霊に移行していた。午後になっても体が怠く、梢を吹き抜けて冷たい自然風が入ってくる座敷にだらしなく横たわって庭を眺めていた。例年は録音は4月一杯で終わるのに、今年は新型大正琴の開発や、私の文化芸術賞の受賞祝賀会並びに国民文化祭の準備などで時間がとられ、大幅に遅れた。どんなにだらし無く横たわっていても、頭の中は、各クラスのリサイタル曲の仕上がり具合で溢れ返り、大正琴から解放されることは無い。録音は済んだがこれから、関係機関への後援依頼や協賛のお願い、舞台関係者との打ち合わせ等々仕事は山積み。その間を縫って私個人の演奏依頼を受けなければならない。スタジオの主宰者で有る限りこの忙しさは続く。

 大正琴が好きだから、大正琴にはまだまだ未完の未来があるから、そして私達(三寺幸雄さん、奥下順造さん)がやらなければ新しい大正琴の世界が開かれないという自負があるから、だからこそ、この忙しさに耐えられるのだと思う。明日は日曜日!もう一日体を休めて月曜からまた頑張ろう!!

 9月11日()、福井市文化会館での西沢純子大正琴スタジオの第16回リサイタルに是非是非お越し下さい。お待ちしております。

 それでは又この部屋でお目にかかりましょう。

2005年6月25日

親の心子の心

 

 「鎮守の森」と間違えられるほどの樹々に囲まれている我が家は、他所様の家に比べたら温度が2〜3度は低いと思う。それでも今日の午後は蒸し暑かった。リサイタルまで一月半と迫りこの時期になると毎年心配性の私は、体のあちこちに不調が起こり疲れも手伝って背中に重石でも担いでいるように体が重く怠い。私自身の練習を始め、片付けなければいけないことが山積しているのに、結局、昼間は我が家で一番涼しい座敷の北側の廊下でぼんやり庭を見て過ごした。蝉が盛りを訴えるようにに競って鳴いていた。見上げると灰色に明るい空に樹々が影絵のように生い茂って映っている。

 介護福祉士をしている長男は日曜日の今日も仕事に出かけている。私がこうしてぼんやり過ごしていることが何となく、暑さの中で働いている長男に申し訳ないような気がしてくる。
 長男は短大卒業後厚生年金事業団に就職し、敦賀市内の社員寮に住まいしながらホテル勤めをしていたが、30歳近くにして県外転勤の話が出たため、同居を強く望む父親の勧めに、本人も同意し事業団を退社し、介護福祉士の資格を取って後、自宅近くの施設に勤務している。

 長男が5歳の頃、私は舅の理想とする「封建時代そのままの嫁」には到底なれ無いと思い、家を出る決心をした。木造の古いアパートを探し当て長男に「お母さんはもう西沢の家ではやって行けないから、今日からここで暮らそうね。働かなければならないから協力してくれる?」と問うたところ、「お母さん、僕はあの西沢の大きな家が好き!!あの家で暮らしたい!!お祖父ちゃんとお父さんにこのアパートに住んでもらって、僕とお母さんは西沢のお家で暮らそう!!」と目に涙を一杯溜めて私を見上げた。
 瞬間「ハッ!」とした。私は自分の気持ちだけを考えていた。子供の気持ちなど考えていなかった。西沢の家を出てはいけないと思った。そうとなればこの家で戦わなければならない。家に帰り仏間に舅にきてもらって、私の気持ちを正直に話した。舅は「お前以外の嫁に死に水をとってもらおうとは思っていない。わしも改める。」と「西沢家の嫁の心得」のうち幾つかを外してくれた。

 長男が小学高学年になる頃から、私は大正琴を始めた。この頃の顛末はコーヒーブレイクの一番始めのところや次男の結婚式等のところで触れているので省くが、私は大正琴に夢中になった。長男が中学、高校となるにつれ趣味で始めたはずの大正琴がいつの間にか先生、演奏家と呼ばれるようになり、子供達の思春期の大切な時期を私は家の中も外も走り回って仕事に没頭した。いろいろ相談したいことも甘えたいこともたくさんあったであろうに、息子達は私になんの心配も世話も掛けずに、寧ろ祖父、父親と私の間に入って私を応援してくれた。

 昨今の新聞記事で少年の事件をみると、その頃の母親としての私を思い「ゾーッ!」とする。よくぞまともに育ってくれたと感謝する許りである。次男は結婚して独立したが、未だ独り身の長男の為に私はその頃の罪滅ぼしの心算で一生懸命にお弁当を作る。帰宅時には自分がどんなに疲れていても起きていて「お帰り!」と声をかけるように心掛けている。

 好きで始めた大正琴とは言え、仕事となると楽しいことばかりではない。でも心の何処かで、子供達を犠牲にしてまで続けてきたのだから、そう簡単に止めたら罰が当たると思っている。
 空がだんだん暗くなり、樹々がその輪郭を空に呑み込まれていき、庭園灯がその周りをぼんやり映し出している。長男は今日も遅くなるのかしら……。

 それでは又この部屋でお目にかかりましょう。

2005年7月17日

頑張らなくっちゃ!!

 

 2004年9月11日()、第16回西沢純子大正琴スタジオリサイタルまで一ヶ月を切った。例年のことだが、胃に消化不可能の苦玉を飲み込んだようで、体の中心部全体を鈍痛が襲う!!。神経もピリピリし、ほんの些細なことにでも腹が立ってくる。
 言うまでもないが犠牲者は、音楽監督の三寺さん。あの方は本当に大人物だ(単に神経が太いだけかも???)。
 私が、自分でも、これは理不尽だなと承知しながら、突っかかっていっても、彼は泰然と構えて受け流すばかりで、決して怒ろうとしない。拍子抜けして「どうして反論しないの?」と聞いたら「西沢さん、山でいきなり熊に逢ったら、非力な者は(嫌み)死んだ振りをしてやり過ごすのが最善の選択というでしょう?」と言われた。ムムム!!。私は熊か…!!??

 生徒さんに立派な演奏をした誇りを持って頂きたくて、レッスン時間も増やすし、体が火の玉になったごとく全身全霊で指導する。夜遅く帰途につく頃は疲労困憊で声すら出ない。体もふらつく。でも、帰宅してからは主婦としての仕事が山積しており、私自身のお稽古のエネルギーはすっかり使い切ってカラッポ!!
 しかし、私には第三部で「西沢純子オンステージ」という見せ場が待っている……。責任感で心身共に押し潰されそうである。こんな状態で、冷静でいろと言う方が間違っている。
 おまけに10月23日の福井県春江町で開かれる国民文化祭「室内楽の祭典・大正琴」の企画委員長の仕事も並行してこなさなければならない。近頃は障らぬ神に祟りなしとやら、後難を恐れて家族でさえ、私に近づこうとしない。アーア!!体が二つ欲しいー!

 閑話休題、来る8月27日、私は待望の「おばあちゃん」になる予定だ。一昨年に結婚し、このコーヒーブレイクでも触れたあの次男に子供が授かったのだ。
「何て若くて綺麗なおばあちゃんかしら?」と鏡に映る自分をウットリと眺めている。
 えっ!独り善がりだろうって?
いいえ!! 少なくとも3人は居ます、いえ居る筈です。
 まず私、そして信頼している三寺さんと奥下さん、オーイ、お二人さん!このコーヒーブレイクを読んだらフォローを宜しくお願いしますヨー。

 息子から、お嫁さんが入院したら電話、陣痛が始まったら電話、生まれたら電話と都合3回電話がかかることになっている。
 この原稿をここ迄書き進めて来たら、突然、下腹部がしくしく痛みだした。私は暗示に大変掛かりやすい性格なので、もしかして想像陣痛…?

 イタタッ!!
 本当なんだから!!

 それでは又この部屋でお目にかかりましょう。

2005年8月12日

初孫誕生

 

 我が初孫殿はのんきものらしい。予定日の8月27日には何の兆候もなし。8月30日午後になって漸く次男から「順調にいけば今日中に生まれそう」と連絡があった。生まれたらすぐに出かけられるように、若々しく見える外出着を選び、髪も整え化粧も念入りにし、初孫とおばあちゃまの記念すべき初対面に向け、万全の体制を整えた。たとえ、目は明いてなくても、若々しいおばあちゃまだと心眼で悟ってくれるに違いないと期待したからだ。然し乍ら、期待に反し、待てど暮らせど連絡なし………。

 日付が変わり8月31日午前1時になり、次男から「まだ2〜3時間はかかりそう」と連絡あり、今度は長引いているお産が心配になり、立ったり座ったり歩き回ったり、普段着に着替えて横になったり、と、まるでリサイタル前夜の精神状態と同じ!

 午前10時20分電話が鳴り、あちらのお母さんから「今,生まれましたっ!!」、「あっ!そうですか。よかったです!やはり男の子でしたか?」と、私。「さあ?オギャーッ!!と生まれた声を聞き一刻も早くお知らせしなければっ!と、慌ててお電話したので、どちらか確かめるのを忘れました!!!」と、あちらのお母さん。電話の向こうから初めての娘の出産に直面した狼狽ぶりと、嬉しさとが伝わってくる。追いかけるように、次男から携帯で「お母さん生まれたっ!!、2970グラムの男の子。母子ともに元気!!」と一報が入る。
 主人に伝えると「直ぐ行くぞー!」とのことで着替える間もなく車に飛び乗った。髪はボサボサ!顔は汗でスダレ状態、服は普段着。前日の入念な準備は何処へやら、悲惨な状態での初対面となった。でも孫の顔をみたら総てがどうでも良くなった。けがれの無い神聖なつぶらな瞳でみつめられると「こんなかわいい子を授けて下さって有り難うございます!」と神様に感謝した。たった10秒間の短い初対面だったけれど充分満足し病院を後にした。9月3日には私の母をつれ、主人と母と私の3人で逢いに行くことにした。

 母にとっては初曾孫だ。母は対面に備えて前日の2日には美容院にいくやら、家ではありったけの服を試着して、大騒ぎをしている、と義妹から電話があった。主人もそわそわと散髪に行った。この親(私の実家の母)にしてこの娘(勿論私め)あり!この妻(私)にしてこの夫(主人)あり…………?!?!。

 『チョットー……??。みんな何考えているんだよー!!』と孫殿は呆れていることだろう。

 それでは又この部屋でお目にかかりましょう。

2005年9月3日

第16回リサイタルを終えて

 

 前庭に面したリビングの一角にパソコンと机を置き、炊事、洗濯等の慌ただしい家事の合間を縫って大正琴関係の仕事をしています。
 風の匂い、木々の色、野鳥の声がすっかり秋になっています。回転式の椅子を庭に向けて、暫くボンヤリと緑を眺めてから気持ちを切り替え、私は「主婦」の顔から「大正琴奏者」の顔になります。

 今回のリサイタルも大成功裡に終えることが出来、後片付けも終わり、里帰りしているお嫁さんの実家に初孫の産着も届け、昨日(10月1日)は「たのしい大正琴講座」を持っている「ふくい社会保険センター」の文化祭で講座生による発表も無事終え、リサイタルを終えて以来久しぶりの安息日を迎えました。
 リサイタルは私にとって毎年公開オーデションを受けてるようなものです。一度でも失敗すればお客様は二度といらしては下さらないという厳しい決意をもって臨みます。だからこそ鍛えられもするし、やりがいもあります。来年のリサイタルは10月15日と決まりました。コンセプトをどうするか!選曲は?…すでに心は来年のリサイタルの準備です。

 更に、同時進行で10月23日福井県春江町で開かれる国民文化祭「室内楽の祭典・大正琴」の準備や各地区の公民館講座の文化祭への出演、私個人のコンサートの依頼、恒例のニューイヤーコンサートの準備等等…。
 体はいくつあっても足りませんが、或る意味では、毎日がとても充実した人生のように思えます。

 リサイタルの舞台で最後に緞帳がおりる時「もしもこのまま死んでも、私の人生は素晴らしい人生だったな!!」と毎回思います。三寺さん、奥下さんというお二人との素晴らしい出会いの御陰といつも感謝しております。そして毎回私を支えて下さっているお客様! HPをご覧頂いている皆様本当に有り難うございます。

 第16回リサイタル第三部の「西沢純子オンステージ」をHPで公開すべく、ただ今準備中です。是非ご覧くださいませ。感想などお寄せいただければ幸いに存じます。

 それでは又この部屋でお目にかかりましょう。

2005年10月2日

国民文化祭を終えて

 

 2005年10月23日福井県春江町ハーモニーホールにて『第20回国民文化祭2005ふくい「室内楽の祭典・大正琴」』を無事終えることが出来ました。立ち見席が出るほどの盛況でした。
 秋田県・新潟県・愛媛県・山口県からの県外6団体の出演に加え、県内団体もそれぞれ県外からの応援出演なり友好団体との合同演奏なりで、全国津津浦々から出演者をお迎えしての大正琴の祭典でした。

 私は企画委員長として、参加者の皆さんが「参加して楽しかった!春江迄きてよかった!」と思って頂けるようにと、神経を張り詰め、緊張のあまり、その日は38度の熱が出て、風邪薬に始まり、栄養剤、ありったけのサプリメントを飲みまくり状態での出演でした。
 そして!!そして!!まさしくその日は、私達が数年の歳月を費やして開発した、新型大正琴「西沢純子式アコースティック大正琴ベガ」のデビューの日でもありました。

 マイクもアンプも使わずに大正琴の生の音の演奏を、お客様に楽しんで頂くのです。「悲しい酒」を演奏しましたが、ソプラノ大正琴、アルト大正琴、テナー大正琴を西沢が独りで弾き分け、ベース大正琴を音楽監督の三寺幸雄さん、ギター伴奏を同じく音楽監督の奥下順造さんが担当して下さいました。

 今までの大正琴は、音量の足りない分をアンプの力を借りて弾いておりましたが、アコースティック大正琴は右手の力加減一つですべて表現しなければならず、弾き方がまるで違います。出来上がってから本番迄20日間ほどしかなく必死で練習しました。本来なら楽器は2〜3年弾き込まないと思うような音にはなりません。しかしどうしても国民文化祭で全国の皆様にアコーステイック大正琴を見て頂きたかったので無理をしました。

 制作者の浦井和美先生は制作中、木の破片が顔に当たり、前歯を折り、唇を切る怪我をされました。私は私で大切な大切な右目が(左目は小さい頃アクシデントでほぼ失明…詳しくはコーヒーブレイクのJR事故のところをお読み下さい)練習のし過ぎで、白目の部分が内出血で真っ赤に充血し、眼球は腫れ上がりました。本番ではどうにか薄桃色の色っぽい目(?)に戻りましたが…。音色を調整する音楽監督の三寺さんは、寝る間もないほどでダウン寸前の状態。

 これも偏にアコーステイック大正琴の音色、私たちが目指している本当の大正琴の音色を皆様にお聞き戴く絶好のチャンスに間に合わせたい一心からのことでした。

 本番当日!プログラムは最後の出番!

 スタジオ会員と講師陣の合同演奏で「昴」を、講師陣だけで「夜桜お七」を、再び全員で「風雪流れ旅」の三曲を演奏、嵐のような拍手の中、私は、コンサートマスター席から「スッ」と立ち上がり、舞台を降りて客席の中央に向かう。お客様はなにごとか?と思いながらも、あちこちから「…ワー奇麗な人…」「…お人形さんみたい…」と、ささやく声が聞こえてきた。それまで熱で少しふらついていたのに、その声が聞こえる度に熱が一度ずつ下がり、前もって、客席の中央にしつらえておいたアコーステイック大正琴のセットの前に立った時には、すっかり平熱になり「〜やーるーとおもえばーどこまーでーやるさー」と心の中から歌が聞こえてきた。(…私はアホ!かもしれない?…)

 体の奥底から炎が燃え上がり、私は全身全霊で「悲しい酒」を演奏した。静まり返った聴衆からため息が上がり、一瞬の間を置いて、嵐のような拍手と大歓声とともに、私は聴衆に取り囲まれてしまった。握手を求める人、記念撮影を頼まれる人人人。

 アー!大正琴をやっていてよかった!!!。

普通では味わえ得ない、感動を味わえさせてもらい、人生最良の瞬間である。あたかもドキュメンタリー「プロジェクトX」の世界にいるようだ!

 今回、全国から『第20回国民文化祭2005ふくい「室内楽の祭典・大正琴」』に出演して下さった皆様、そして、当日激しい風雨の中、会場まで足をお運び頂いた大正琴フアンの皆様、そして、運営に渾身のご努力を振るわれた関係者の皆様、本当に有り難うございました。

 今日は10月26日…まだボーっと感動の余韻の中にいる。積もり積もった疲れもある。

 でも11月にはコンサートが二つあるし、ニューイヤーコンサートもあるし、何より来年10月15日の第17回西沢純子大正琴スタジオリサイタルの選曲に入らなければならない。ボーッとしている暇はないのですよ、純子さん!!!

 それでは又この部屋でお目にかかりましょう。

2005年10月26日

我が家の秋

 

 秋も一段と深まり我が家の庭は、紅葉の真っ盛り!深緑の苔の絨毯の上に黄金色のイチョウの葉が、風で桜吹雪ならぬ銀杏吹雪の態をなしている。その周りには緋色、赤色、茜色、真紅、或いは橙色に染め上げられた紅葉が、松や杉などの緑のなかにあでやかに点在し、リビングの床に座り込んでぼーっ!と眺めていると、まるで時間が止まってしまったかのように、脳の働きも止まり、静寂という題名の絵の中に入り込む。

 舅が健在の頃は来客が多かったこともあるが、嫁が「庭を楽しむ」などという『贅沢な時間』は許されなかったし、大正琴が忙しくなってからはなおのこと、こういう時間は取りにくくなっていた。

 今年お引き受けしていた私個人のコンサートは全て終わり、あとはニューイヤーコンサートの楽譜待ちという極楽スケジュールにやっと心のゆとりが生まれ、今日は家事を午前中に済ませ、午後からはコーヒーを片手に、新型大正琴をこれからどう展開させていったらいいのかを漠然と考えながら、庭を眺めて過ごした。
 新型大正琴「アコースティック大正琴ベガ」が紡ぎだす生の弦の響きがどんなに素晴らしくても、西沢純子大正琴スタジオが独自に改良したところの、アンプに最適化した大正琴を既に使っている会員の皆さんに、新型大正琴に切り替えて下さいとは言い出しにくい。

 しかし苦労と工夫を駆使して開発し、意匠登録も済ませ、特許も申請中のこの素晴らしい「アコースティック大正琴ベガ」の弦の響きで、アンサンブル演奏を実現してみたい、音楽フアンの皆様にこの響きを楽しんで頂きたい、更に日本中の、流派、会派に関係なく大正琴の美しい響きを生で楽しみたい方々と一緒に演奏を楽しんでみたい………!!??
 次から次へと脈絡もなく思考が広がってゆく。どうやらすっかり新型大正琴「アコースティック大正琴ベガ」の魅力に取り付かれてしまったようだ。 

 気が付いたらすっかり日が暮れ、まわりの木々が夕闇に溶け込み、静かに夜の帳を待つのみであった。

 それでは又この部屋でお目にかかりましょう。

2005年11月25日

 

新型大正琴「アコースティック大正琴ベガ」紹介速報版 

NHKほっとネット6時台 参考映像(5分56秒)  windows media

福井新聞 2005年11月10日付けの写真入りで紹介されました

冬ごもり

 

 今冬(2005年)は全国的に大雪ということで、当然のことながら、私の住まいしている春江町も町全体が大きな「かまくら状態」になってしまい、除雪作業に追われる毎日です。大正琴教室も休講にして、我が家の雪かきをしましたが、敷地の広さが仇となり「賽の河原」の雪国版で雪かきした後から後から積もる雪に、当初の意気込みは何処へやら、一日でダウン!後は野となれ山となれで、こたつに入っては「喰っちゃ寝、喰っちゃ寝」の幸せな三日間を過ごしました。

 いつも「練習時間がなーい」とぼやいているのだから、こんな時こそ練習すればよいものを、炬燵を見るや、パブロフの犬も斯くの如しと許り潜り込む誘惑には勝てません。寝すぎて体が膨れ上がり、二重まぶたが一重まぶたになってしまいました。鏡に写る「脳味噌機能停止」の顔の悲惨なこと!
 正気の顔に戻すべく、もくもくと「お勝手口」の除雪作業をしていたら、突然昔のことを思い出しました。

 主人と結婚して新婚旅行から帰ってきた時、当然の如く正面玄関から家に入りました。玄関の次の間が応接間になっており、そこにお舅さんとお義姉様たちの5人が私の嫁入り道具として持参した応接セットに座っておられました。私は床に三つ指付いて「ただ今帰りました。此れから宜しくお願い致します」とご挨拶すると、お義姉様の一人から「部屋見舞い」という包みを渡されました。福井生まれの私はそういう習慣を知らず「へぇー!」と驚いていたら、お舅さんから「今日は玄関から入ったのは仕方が無いが、今後お前は勝手から出入りするように」と言われました。
 商売をしている実家の家族の出入りは表玄関からで、勝手の出入り口はゴミを出す時位しか使用しなかったので、この言葉には少なからず驚きました。

 私の嫁入り道具の下駄箱は、すでに主人とお舅さんの物で詰まっており、私の履物は勝手の入り口の床の上に新聞紙が敷いてあって、その上に山積みにされていました。「町育ちで大切に自由気儘に育てられてきた私」と、「落ちぶれたとはいえ、昔坂井郡で長者番付一番になったことがあるということを何より誇りとしている西沢家の人々」と此れから先々上手く付き合って行けるだろうか?という不安に涙がこぼれました。
 その日から舅が亡くなられる迄、お客様をお出迎えする時以外は玄関を出入りすることも、嫁入り道具の応接セットにすわることもありませんでした。でも、馴れてくると、主婦は買い物をして荷物を抱えている時が多いから、勝手から出入りする方が便利なのです。舅は私を「良い嫁」と他人に自慢するような人でしたから、決して嫁いびりなどではなかったのですが、その家の「しきたり」に馴れる迄には長い年月が必要でした。

 うずたかく積まれてゆく真っ白い雪を見ている内に、35年の歳月のいろいろな出来事が思い出され、暫くの間、涙が流れるままにしていました。冷たく凍り付いた頬をつたう涙がそのまま凍り付いて、頬がバリバリになり、それが可笑しくて今度は声を出して一人で笑ってしまいました。炬燵で茹で上がったり、泣いたり笑ったり何とも忙しい一日でした。

 それでは又この部屋でお目にかかりましょう。

2005年12月23日

 

 

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2003年制作
 徒然なるまま

2004年制作
 15周年記念リサイタル

2005年制作
 文化芸術賞受賞
 

2006年制作
 ヴェガ誕生コンサート
 

2007年制作
 エッセー集出版

2008年制作
 初めての指揮者体験

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大正琴奏者西沢純子の部屋
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2008.3.3 UpDate