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いろいろなエピソードを綴っていきたいと思っています。
Episode in my life.


2004年制作 15周年記念リサイタル 

●徒然なるまま その5 その6 その7 
スタジオ創立15周年記念リサイタル その2 その3
●冨田和江さんとの出会いと別れ その1 その2 
●7.18 福井豪雨 <洪水が残したもの> ●続.15周年記念リサイタル ●15周年記念リサイタルを終えて ●『結果』はそれを導いた『努力』を裏切らない!! ●スローライフ ●日曜日の顔

総合目次ページ

2003年制作
 徒然なるまま

2004年制作
 15周年記念リサイタル

2005年制作
 文化芸術賞受賞
 

2006年制作
 ヴェガ誕生コンサート
 

2007年制作
 エッセー集出版

2008年制作
 初めての指揮者体験

 

徒然なるままに

 

-その5-

 2004年の元旦の朝を父の病室で迎えた。1月1日生まれの父は89歳になった。12月3日に階段から落ちて頚椎損傷となり、12月10日にずれた首の骨を固定する手術をし、20日には痰が止まらないのと肺が酸素を取り込む力がないため、気管切開が行われた。高齢での手術のため軽い肺炎も起こしている。

 12月2日迄は現役で様々な仕事をこなしていた父にとって突然の、動けない、話せない状態をどう思っているのか、私には想像もつかない。
 父の寝顔はしっかりしている。意志を持っている顔だ。人生を諦めている顔ではない。肩から肘までが少し動くのだが、それを一生懸命に動かす。熱があって辛いであろうに、意志を持ってリハビリをしている。

 今回、命について改めて考えさせられた。人生は自分の意志に無関係に始まり、そして無関係に終わりを迎えさせられる、まさしく「神のみぞ知る!!」だ。
 実際、私自身の人生にも、無意味なことに時間を費やす残り時間はもう無いかもしれない。だからあるがままの自分を甘受し、一日一日を大切にしなければ…と、頭では分かっているが、つい無い物ねだりをし、楽な生き方を選択してしまう。

 今年はスタジオ創立15周年記念リサイタルを開催します。健康で素晴らしいスタッフと生徒さんに恵まれ、これで良いものができなかったら、私の怠慢でしかない。お客様に喜んで頂き、生徒さんには感動と達成の喜びを知ってもらえたら……それが私の仕事です。

 福井の歌人「橘曙覧(たちばなのあけみ)」の独楽吟(どくらくぎん)をテーマに、奥下純造さんが書き下ろしたオリジナル曲「新邦楽“たのしみは”」の大正琴楽譜が大分出来上がりました。2004年9月26日の初演演奏を楽しみに待っていて下さい。

 それでは、又、この部屋でお目にかかりましょう。

橘曙覧独楽吟 参考サイト:
http://www.city.fukui.fukui.jp/rekisi/dokuraku/aboutakemi/aboutakemi.html

2004年1月3日

-その6-

 今日が何日で何曜日なのか…??

 ここ数日、夢か現実か、定かでない生活をしている。父はいったいいつ亡くなったのか、葬儀はいつだったのか、よく分からない。
 父の死亡広告が掲載されている新聞を出して読み返してみた。

父河端繁雄儀 かねて病気療養中のところ一月二十一日午前五時三十一分永眠いたしました
ここに生前のご厚誼を深謝し謹んでご通知申し上げます
追って通夜、葬儀は下記の通り相営みます

一、通夜 一月二十二日午後六時 廻り焼香
一、葬儀 一月二十三日午前十時(午前十一時出棺)
一、場所 福井市聖苑(福井市安田町十一の一)

葬儀委員長 福井市議会議長
      田辺義輝
喪   主 河端秀磯
女     西澤純子
      親戚一同
株式会社  双葉商店

 表紙に上記だけ書かれた真っ白の台本を渡され、芝居に突然駆り出され、数日間寝る暇もなく必死でその役をこなし、脱け殻となった体が泥の中に沈み込んでいるような疲れのまま庭を眺めている。

……病院へ行かなければ!!…父が待っている!!……

 もう一度新聞を見る。

……父が死んだ???……,いいえ!!!、病院にいるはず。

 私を待っているわ…いかなきゃ………。

 お父さんの体をマッサージしている時、気持ち良さそうに静かに目を閉じていたじゃない!「お父さん帰るね」と言ったらゆっくり頷き、声の出ない口を開けて「もういい」と言ったじゃない!だから安心してバイバイをして帰ったのよ!
 もっと辛そうな顔をしてくれたら、私泊まったのに……。やっと自分の家に帰ってきたのに…やっと首の器具が外れたのに…どうしてこんなにお父さん冷たいの?私がお父さんの布団に入って横に寝ているのに…目を開けてよ、お父さん!!!

 父の存在は家族にとって、とてもとても大きいものでした。12月3日の段階で、そのまま亡くなっていたら、母をはじめ私たちは半狂乱になるほどの衝撃を受けていたでしょう。
 それを避けるために、父は、全身麻痺と、首のずれを直す脊椎の難手術に耐え、回転ベッドのようなものに体をくくり付けられたリハビリにも全力を尽くし、最後まで努力する姿を見せつけ、「バイバイ」と言って帰る私をおだやかに見送り、二度と目を開ける事のない世界へ旅立ってしまった。

 父が残してくれた思い出は尽きる事がない。私達(純子、清子、秀磯)三人は、父の娘、息子であることをずっと誇りに思って生きてきました。
 父の愛が余りに大きく、そして強い支えだった現在、闇夜に猛吹雪の中を、一人で歩いて行くような心細さに襲われています。

 それでは、又、この部屋でお目にかかりましょう。

 

2004年1月25日

-その7-

 朝からどんよりと薄暗く、静かな雨模様の一日。
 今にも「純子!いるのか?」と、門の格子戸を開けて、父が歩いてきそうな気がする。今頃、父は何処でどう過ごしているのだろう…?
 父の机の引き出しを整理していたら、生前、福祉団体を始め、様々なところへの寄付に対する感謝状がたくさん出て来た。中には見覚えのある手形も…。

 30年くらい前、父は越前竹人形作家志望の青年から、東京で個展を開くための資金を借りたいと申し込まれた。決して少ない金額ではなかったので家族は猛反対したが、父は「誰かが応援してやらなければ、才能あるものが育たない、お前達もいずれ他人(ひと)様の世話になる日がくるかも知れない」とお貸しした。
 東京での個展の結果については不明だが、その後青年は忽然と姿を消し、父の手もとには、幾つかの「竹人形」と「手形」が残った。

 現在、私は自分でも思ってもいなかった大正琴奏者としての道を歩み、三寺さん、奥下さんとの不思議な出会いに恵まれ、大勢の人々に助けられ、支えられ、本当に人に恵まれていることを実感している。

 父の撒き続けた種が、今、私に還ってきているのかもしれない……。

 父への想いは尽きることがないのでここで一旦筆を置き、次回から、
「西沢純子大正琴スタジオ創立15周年記念リサイタル」の最大の演し物の奥下順造書き下ろし作品、新邦楽(ドレミ邦楽)・組曲「たのしみは」についてと、
2005年(平成17年)に福井県にて開催される、第20回国民文化祭室内楽の祭典「大正琴」(大正琴フェスティヴァル)についてお話いたしましょう。

 それでは、又、この部屋でお目にかかりましょう。

2004年2月29日

スタジオ創立15周年記念リサイタル

 

-その1-

 2004年3月20日(祝)〜21日(日)の両日、福井県の芦原温泉「越路」にて、スタジオの総会と親睦会による懇親会が行われました。
 平成15年度の活動報告と平成16年度の活動方針の発表、修了証及び認定証の授与式が例年どうり行われました。
 最後は恒例のミニ・ミニ・コンサートに希望者が出演し、会員の前で演奏しました。一年間練習して来た成果を、一生懸命披露する生徒さんの姿の中に、過去の私の姿が重なって見え、毎回、毎回、私の胸に熱いものが込み上げます。

 今年はスタジオ創立15周年記念リサイタルになります。リサイタルは毎年開きますが、節目の年には記念の委嘱作品を初演演奏する事にしています。

 創立5周年の時は、スタジオの音楽監督奥下順造による書き下ろし作品、新邦楽(ドレミ邦楽)「静の舞」、創立10周年の時には、福井の作曲家平井英治と同じく福井の詩人有田幸代作詞による、大正琴のための、合唱付き組曲「飛翔」を発表しました。

 今年は、橘曙覧(たちばなのあけみ 江戸時代に活躍した福井の歌人、米国のクリントン大統領の挨拶にその和歌が引用されたことから一躍有名になった。)の、「たのしみは」から始まり「とき」で終わる和歌(独楽吟=どくらくぎん)を題材に春夏秋冬の4章から成る、組曲「たのしみは」を発表します。

 パート譜も出来上がり、3月からお稽古に入りました。

 ソプラノ大正琴、アルト大正琴、テナー大正琴、ベース大正琴の11部合奏と地方(ぢかた 唄、大皷、小鼓、太鼓、笛)により構成されています。

芳村金秀 

東京芸術大学音楽学部邦楽科卒業・長唄協会・杵栄会会員

梅屋 巴

東京芸術大学音楽学部邦学科卒業・長唄協会・女流囃子演奏会・梅屋会会員

望月晴美

東京芸術大学音楽学部邦楽科卒業・同大学院音楽研究科修了・長唄協会・女流囃子演奏会会員

梅屋右妃

東京芸術大学音楽学部邦学科卒業・長唄協会・女流囃子演奏会・梅屋会会員

鳳声千晴

東京芸術大学音楽学部邦学科卒業・長唄協会・女流囃子演奏会・鳳声流笛方

の5人の素晴らしい演奏家をお招きし、福井本部会員に愛知支部、滋賀支部、京都支部の会員が加わり総勢70名余りの大正琴合奏団になります。

 素晴らしい演奏を確信し、今から胸の高鳴りを覚えます。福井市文化会館にて、2004年9月26日(日)、午後2時開演です。

 新しい感動を私達と共に創り出しませんか!!

 皆様のご来場をこころよりお待ちしております。

 それでは、又、この部屋でお目にかかりましょう。

2004年3月23日 スタジオにて

-その2-

 午前四時頃息苦しさのあまり目が覚めた。心臓が動悸を打ち、まるで気圧の低いところにいるような感じで、何度も何度も大きく息をすった。

…早すぎる…???。

 例年リサイタルの一か月くらい前になると、曲の仕上がり具合、チケットの売れ具合、舞台の段取り、等、心配性の私は眠れなくなり、体に様々な症状が出てくる。

 スタジオ創立10周年記念リサイタルで、平井英治作曲大正琴のための組曲「飛翔」(合唱付)を発表した時は、心身症と胃炎と緑内障になり、『このような大作には今後一切さわらないでおこう』と思ったくらいでしたが、演奏終了後の満場の喝采を浴びた瞬間、苦労はどこかへふっとんでしまい、又、今日を迎えてしまった。

 今回は、生徒さんの演奏力も上がっているし、演奏会までまだ十分時間もあるし、それほど心配する材料は無いはずなのに、どうしたのかしら……?

 暗い底なしの闇に落ちて行くような不安に襲われている。

 酸素が足りなくて、荒く大きく息を吸いながら、<私のような先生がもう一人いたら、私は生徒でいたいなー…。>と叶わぬ思いに囚われている。

 舞台転換が上手くいくだろうか…?、会場まで足を運んで下さったお客さまが満足されているだろうか…?、生徒さんが達成感を味わって下さっているだろうか…?、常に責任者として、これらのことで頭が一杯で、私自身の演奏は二の次三の次になる。そして毎回演奏会が近付くと胃炎になり、来年はもっと簡単な演奏会でおこうと思いながらも、現実にはどんどん新しいことに挑戦し続けている。

 苦労に勝る、達成感と感動と悦びが、それまでの総てを帳消しにしてしまうからだ。

<このような大掛かりな演奏会は今回で最後にしよう。平成十七年度(2005.10.23)の国民文化祭の「室内楽の祭典・大正琴」が終わったら、のーんびりしよう、絶対にするぞー!!>

 初夏のような眩しい日差しの中で洗濯物を干しながら、また懲りもせず同じことを考えている。

 それでは、又、この部屋でお目にかかりましょう。

2004年4月21日

-その3-

 今回の記念リサイタルの目玉の委嘱作品.奥下順造作曲、新邦楽「組曲 たのしみは」のお稽古は順調な滑り出しである。雅な情景を表現するための新しいトレモロの奏法も工夫してみた。

 第三部の西沢純子のソロステージの候補曲も決まった。
 「島唄」、「青いカナリア」、「北海恋歌」、そして、今話題の韓国テレビドラマ「冬のソナタ」の主題曲「最初から今まで」そして最後はリクエストの多いひばりメドレーパート4として「私は街の子〜花笠道中〜雪の丞変化〜関東春雨傘〜お前に惚れた~芸道一代〜みだれ髪〜愛燦々〜川の流れのように」を予定している。

 いままでなら私の曲が決まると、体の奥の熱い血が騒ぎだすのだが、ここ数年はそれがない。それどころか得体の知れない不安と心細さに襲われる。舞台の上で自分の演奏に満足しなくなってきてしまったのだ。演奏後自分のビデオを見るのはとても辛い。

 今までのリサイタルのアルバムを眺めた……。

 開演を待つ会場前のお客様の長蛇の列の写真が目に入った。9月はまだ陽射しも強い。今はクーラーの効いた部屋で世界中の素晴らしい音楽を聞くことも出来る。なのにこうしていらして下さるのだ。<…私はこういう方々に支えられている。お客様は私の生き様を見にいらして下さるのだから、いまの私の精一杯をおみせすればいいのだ…> 

 芳名録と頂いた多くのお手紙を読んだ。

「たくさんの元気を頂きました。有り難うございます」

「私も今日から何かを見つける努力をします」というのが多い。思わず感謝の頭が下がり目頭が熱くなる。<…お礼を言わなければいけないのは私の方だ……。>

 人生はドラマであり明日のことは誰にもわからない。だから今日を精一杯生きたい!与えられたチヤンスは大切にしたい!というのが私の持論ではないか!

 9月26日 西沢純子大正琴スタジオ第15回創立記念リサイタルに全力を尽くします。

 それでは又この部屋でお目にかかりましょう。

2004年5月10日

冨田和江さんとの出会いと別れ

 

-その1-

 西沢純子大正琴スタジオ京都支部長 冨田和江さん

 2004年5月27日、冨田和江さんの葬儀に参列するために午前5時40分に自宅を出た。胃がんだった!享年72歳。まだ早すぎる死だった。

 車窓から見る日本海の眺めも、ローカル線のガラーンとした空き具合も、冨田さんを失った悲しみを倍加させ、生暖かい涙が幾筋も頬を伝った。列車を何度も何度も乗り継いで午前10時46分京都府宮津市に漸くたどり着いた。
 こんなにも遠いところから、こんなにも大変な時間を掛けて今まで通って下さっていたのかと、胸にこみあげてくるものがあった。

 1994年(平成6年)、大正琴専門誌に書かれた私のCD出版(幻想)の紹介記事を読まれCDのプレゼントに応募され、私のCDを聴いて電話をされたのが冨田さんとの初めての出会いだった。受話器の向こうで極度に緊張された声で、前もって書いてあったらしい文章を読み上げられた。「…CDの音色に感激したこと、自分も大正琴の指導者だが納得せず悩んでいて、自分が求めていた大正琴の音色とそのあり方にやっと巡り会えたこと、今までの大正琴の経験を全部捨てて、一から私(西沢純子)に大正琴を習いたいこと等…」を話された。
 10年も前のことなのにそのときの冨田さんの声が今でも不思議なほどはっきりと耳の底に響いている。

 宮津では通夜の翌朝には火葬してしまわれる、ということで、私は白い布に包まれた小さな箱の冨田さんと対面した。ドクドクと心臓が騒ぎ、体の大きな支えのどこかが「カクッ!」と外れたように足元が不安定になった。

 私と冨田さんとの間には、大正琴のあり方を追求し続ける者同志にしか生まれない固い絆があった。

 「最後に西沢先生の演奏が聴きたい」という冨田さんの遺志に応えるため、万感の念いを込め、冨田さんに大正琴の演奏を捧げさせて頂いた。冨田さんが育て上げた宮津教室の生徒さんたちと一緒にアンサンブルで「荒城の月」を、無伴奏ソロで「影を慕いて」と「風の盆恋歌」の二曲を西沢が演奏した。
 参列者の方々の涙がこの別れの時を一層悲しく、冨田さん、残された私達、そして参列された方々とを一つに溶け込ませた。      

 ……冨田さん!! 10年間も私に同行して下さって有り難うございました。ギター、三味線、シンセサイザーをこなし、私より楽器歴はずっと長い方なのに、いつも真摯な態度で私と共に歩んで下さいましたね。

 冨田さん!! 私は宮津教室の皆さんと冨田さんの意志を継いでゆきます。道の遠さに挫折しそうになる私達をいつまでも見守っていて下さいね。

 さようなら冨田さん!! 謹んでご冥福をお祈り致します。

 それでは又この部屋でお目にかかりましょう。

2004年6月1日

-その2-

 2004年5月30日、宮津市の歴史の館2F文化ホールで行われた「宮津番傘川柳創立80周年記念川柳大会」の祝賀演奏に出演致しました。

 今年1月、二度目の胃がんの手術を控えた冨田さんから「記念川柳大会には、京都、大阪、兵庫などから多数の会員が参加されるので、その方々に是非、西沢先生の演奏をお聴かせしたい!ついては祝賀演奏をお願い出来ませんか?」という電話がありました。

 以前、宮津に私どもの支部が出来たときに、開講記念コンサートをやっており、常々冨田さんは「いつの日かもう一度、宮津の人々に先生の演奏を聴かせてあげたいと思っています。」と言っていらしたので、私は快くお引き受けしました。

 手術を前にして様々な葛藤がおありでしょうに、そのような状態で尚、私の演奏を宮津の人々に聴かせたいと思って下さる冨田さんのお気持ちに、私は演奏家冥利に尽きる感動と感謝に包まれました。

 2度目の手術を終えられた冨田さんは病状が一進一退のなかで5月30日を待ち続け、宮津教室の生徒さん達が見舞いにいかれると、朦朧とした意識の中で、『……西沢先生の演奏はもう済んだの?……』と聞かれたそうです。
 闘病虚しく、待ち望んだ30日までわずか4日を残して冨田さんは、5月26日に永眠されました…。

 当日の祝賀演奏では、宮津教室の皆さんと一緒にアンサンブルで「佐渡おけさ」と「風雪流れ旅」、西沢ソロで「天城越え」「ベサメムーチョ」「悲しい酒」「川の流れのように」他3曲を披露しました。

 演奏が始まる前、私は傍に冨田さんの気配を感じました……。

 思わず、「今日、私に演奏を依頼して下さった冨田さんの魂がここにいらしてるので、一緒に演奏します」と言いました。
 静まり返って聴き入って下さる会場の皆様の陶酔の溜息を感じながら、私がこの場にいることのご縁の不思議さと同時に人生の儚さを思いました。

 祝賀演奏は好評裡に終わり、冨田さんに幾許かのご恩返しが出来たような気持ちになりました。

 

 終演後、ご親戚の方が私を楽屋に訪ねて見えて、会場の最前列で冨田さんの遺影を持って聴いていらしたことを知りました。

<……やはり冨田さんはいらしていたのだ!……>

 冨田さん!生前によくお悩みのお電話をいただきましたね!大正琴のあるべき姿、指導法など、ほとんど私が抱えていることと同じ悩みでした。先頭を歩き続ける者、真摯に大正琴に取り組む者ならば誰もが抱える問題です。私は、これから先もずっと悩み続けることでしょう!

 冨田さん、私のことを見守って応援してくださいね!

  それでは又この部屋でお目にかかりましょう。

2004年6月27日

 

7.18福井豪雨

 

<洪水が残したもの>

 福井県を襲った集中豪雨から6日が過ぎた7月24日早朝、京都支部宮津教室の指導に向かうため、福井市内の春日地区を通った。ここは、足羽川の堤防が決壊し床上浸水した地区だ。早朝であったために人影は少なかったが、道路には泥流が残していった泥が夏の日差しで乾燥し、固まり、或は土埃となって舞い上がり、まるで、洪水の凄まじさを刻み付けているように私の胸を穿った。舗装は固まった泥に覆われて、恰(あたか)も一昔前の道路を走っているような錯覚に陥る程であった。

 2004年7月18日未明から福井県嶺北地区は局地的な豪雨に見舞われた。テレビに映し出される足羽川の水嵩は見る見る警戒水位を超え、わずか数時間の間に、所によっては堤防からあふれる勢いだった。

 私の自宅は福井市の北隣の春江町だが、スタジオは足羽川の堤防の傍(左岸)にあり、実家は避難指示の出ている足羽地区にある。実家に電話をすると、義妹が
「先程から広報車が避難するよう呼びかけているが、何処にということがわからない。多分学校か公民館だろうが、お義母さんが(死ぬときはこの家で死にたいから若い人達だけ避難しなさい)と言っているんです。」と言う。
 弟は名古屋の高島屋での伝統工芸展に出店のため留守で、さぞ、向こうでテレビのニュースを見て気を揉んでいることだろう。

 79歳の母は膝が曲がらないので、ベッドと椅子の生活を強いられている。自宅は3階建てで1階が店と工場(イチョウ材専門店双葉商店)2階が母の住まい3階が弟夫婦の住まいになっている。
 実家は足の悪い母が生活しやすい設計になっており、ホームエレベータも設けられている。
 電話の中で、私は「お母さんは、ゴザでは横にもなれないし、用足しも出来ないでしょう。ご飯を多めに炊いて、お水と懐中電灯とお風呂場にお水が張ってあれば、4〜5日は大丈夫、2階まで水は来ないから、家にいる方がお母さんのためにいいと思う。その内私が助けにいくから」と電話を切った。

 杖のお世話になりながらでも、バリアフリーになっている住宅でならどうにか自力で生活できる、母のような高齢者、或いは、障害を持っている人々は、避難命令が出ても、避難することが出来ないし、又、そういう人たちの為の避難場所も設けられていないのが現状だ。

 電話を切って間もなく、スタジオや実家のある場所より少し上流の方で堤防が決壊し、泥流が足羽地区の東側の木田、みのり地区に流れ込み、約七千六百世帯の床上、床下浸水を引き起こした。堤防のどの部分が決壊しても不思議ではない状態であった。

 一方、鯖江市河和田地区も堤防の決壊や土砂崩れで多くの被害を出し、私の生徒さん達も大きな被害を蒙った。
 伝え聞いた惨状のあまりのひどさに皆さんの無事と後始末の大変さを思い、自分の非力さを怨みに思う事しかできず心が痛んだ。

 この一週間、新聞やテレビは壊れた建物の始末や、粘土のような泥を家の中から運び出す人々の、泥まみれの疲れきった表情と、その人々を支える、県内外(一部海外から)から駆けつけたボランティアの方々の活動ぶりを伝えていた。
 砂埃の舞い上がる被害地区を通過する時、何となく後ろめたさに胸が痛んだ。みんなが人手を欲しがっている。この暑さに疲れも増し、絶望的になっているお年寄りも多いことだろう。それなのに、私は自分の仕事のために、いまここを素通り通過する。
 せめてもの救いは、私の長男が同じく被害の多い美山町地区にボランティアに出かけていることだった。

 地球の温暖化が急速に進み、地球規模で異常気象が起こり警告を発しているのに、それでも尚、人間は己の、私利私欲の為に開発をし続け、戦争は止まず、弱者はどんどん置き去りにされ、SFの世界に描かれているような人類滅亡に向かって歩き続けて行くことしか出来ないのだろうか……。

 それでは又この部屋でお目にかかりましょう。

2004年7月25日

続.15周年記念リサイタル

 

 今年は、初夏というべき時期に、中東の砂漠もかくやと思わせる程の猛暑の連続で、夏の前半にして蓄積疲労を感じる日々を送っていましたが、盆も過ぎ、明け方には開け放った窓からのひんやりとした冷気のプレゼント、夕刻の蜩の合唱から夜半に至る鈴虫の合奏に漸く秋の気配を感じるようになりました。

 ところで、西沢純子大正琴スタジオ創立第15周年記念リサイタルのPRと取材依頼のため、8月24日・25日の両日に報道機関を訪問しました。

 例年担当の方が代わるので、私たちが目指している大正琴の在り方を毎回説明しなければならない。担当の方はとても丁寧に応対して下さるのだが、大正琴に対するある種のイメージを持っていらっしゃるのではないか…?、とついつい心配になり熱弁を振るってしまいます。
 連日のハードスケジュールで疲れきっていて「ああ…こういう広報係を誰か私に代わってしてくれないかなー…」と、ついさっきまで考えていたのに、熱弁を振るう内にだんだん興奮してきて、<何としてもこの担当の方に私たちの目指している大正琴の素晴らしさを分かってもらいたい、分かってもらえるまで帰らない…!!>と悲壮な決意まで生まれてきて熱弁に拍車がかかり、無声映画の弁士の生まれ変わりじゃあるまいかと思うくらいの熱弁の数々。担当の方の快諾を得て、帰途につく頃には、今からオリンピックのフルマラソンに出れるのではないかと思うくらい意気軒昂、元気ハツラツ!!

 しかし、熱弁は誰よりも私自身に対しての熱弁だったようで、ようやくリサイタルへの熱い思いがフツフツと湧き上がり、今回も素晴らしい舞台になる予感がします。
 15周年を記念して依頼した、奥下順造さん書き下ろしの新邦楽、組曲『たのしみは』の初演演奏をどうぞ楽しみになさって下さい。

 9月14日には東京から地方(ぢかた)の方々をお招きして「つぼ合わせ」(リハーサル)を行います。期待と不安が交錯しますが、とっても楽しみです。

 それでは又この部屋でお目にかかりましょう。

2004年8月25日

15周年記念リサイタルを終えて

 

 2004年9月26日、15周年記念リサイタルは大好評を博して無事終了した。一部、二部、三部共それぞれに好評であったが、特に二部(組曲「たのしみは」)の緞帳が上がった時は会場から『ウオーッ…』とどよめきが上がり、その声はなかなか収まらず、しばし演奏に入れなかった。
 
リサイタル速報で写真を公開しているので、それを見て頂きたいが、57名の大正琴奏者のドレス姿が作り出すオレンジ色のお花畠、その後方に一段高く、緋毛氈の上に、東京からお越しいただいた黒紋付き姿の5名の客演の唄方、囃子方の皆様の凛とした美しいたたずまい、背景には、この日の為にわざわざ石川県の舞台装飾業者さんに飾り付けて頂いた「松羽目」が一層の彩りを添え、恰も、舞台上に一幅の絵画が現出した様でありました。

 奥下順造作曲、組曲「たのしみは」の演奏は半年という時間を費やして練習してきたので、それなりの自信はありました。又、9月14日に唄方、囃子方の皆様にお越しいただいて「つぼ合せ」(私たちは“音合せ”と稱していますが、邦楽の世界では“つぼ合せ”と稱すそうです。なかなか含蓄のある用語だと思います。)をしていて、唄、鳴り物の素晴らしさ、大正琴との相性に感動したので、本番が待ち遠しい気持ちでした。

 でも、どんなに「つぼ合せ」が上手くいっても所詮は素人の集団ですから、本番で何が起こるか分かりません。
 舞台転換が指示通りに行えるか、生徒さん達が上がらずに演奏出来るか、どのようなハプニングが起きるのか、たった一回限りの本番の舞台というのは、主宰者としては、それはそれは緊張するものです。

 万に一つ、一部2部が力を出し切れず不本意な舞台に終わったとしても、主宰者である私の3部の「西沢純子オンステージ」は失敗は許されません。これは今回に限らず、毎回言えることです。どのようなハプニングが起ころうとも、その為に失敗したという言い訳は通りません。考えられるあらゆることを想定して練習します。そのため2週間くらい前から準備と自分の練習と心配とで、一日2〜3時間くらいの睡眠状態が続き、自律神経失調症に苦しみます。

 そのような状態でも、三部の緞帳が上がると、どこからか不思議な力が湧いてきて、皆様から「迫力の溢れた舞台で元気を頂きました」というお手紙をいつもたくさん頂きます。

 この不思議な力はなんなのか?

 三部の開演案内が放送されると、ざわめいていた会場が『しん……』と静まり、そっと緞帳の隅から会場を覗くと、皆様が息を潜めて私の登場をまって下さっている様子が伺えます。やがて緞帳が上がり、イントロが始まり私が登場すると、割れんばかりの拍手で私を迎えて下さいます。「…私みたいな者を…ありがたい…」そう思うと体の奥深くから熱い固まりがこみ上げて、全身が炎になり、私は別人になります。

 今回も「感動を有り難う!」という内容のお手紙をたくさん頂戴し、生徒さんからも「御陰さまで素晴らしい舞台に立たせて頂きました」と感想を頂きました。

 この時こそまさに私が至福のひとときを味わい、疲れが癒されるときです。

 この15周年記念のために、素晴らしい曲を書いて下さった奥下順造さん、企画、演出と一番忙しく大変なプロデュースをして下さった三寺幸雄さん、特別出演の白井淳夫様、唄方、囃子方の皆様、本当に有り難うございました。又いつも西沢純子大正琴スタジオを支えて下さる関係者の皆様、そしてこのホームページを訪れて下さる皆様の無言の激励、本当に有り難うございました。

 それでは又この部屋でお目にかかりましょう。

2004年10月12日

 

追伸 活動記録と試聴室の準備をしています。新着情報をご確認の上、どうぞお越し下さいませ

唄方、囃子方の皆様のプロフィールへリンク

特別出演の白井淳夫様のプロフィールへリンク

第15回リサイタル 写真入り活動記録へリンク

橘曙覧独楽吟 参考サイト:
http://www.city.fukui.fukui.jp/rekisi/dokuraku/aboutakemi/aboutakemi.html

『結果』はそれを導いた『努力』を裏切らない!!

 

 15周年記念リサイタルの後も、体の疲れを癒す間もなく小さいコンサートが続き、鋼鉄の女の私もついにダウン!!
 1週間の完全休暇を頂きました。私が休むと、その間に普段でも忙しい音楽監督の三寺さんの肩にドカンと負担が掛かり、又、スタジオの講師の方々にも迷惑が掛かります。改めて健康管理の大切さを痛感しております。

 でも、そのお陰で、今私は、自宅で天気の良い日は庭で本を読んだり、サマーベッドを持ち出して、毛布にくるまりながら昼寝をしたり…。まさしく天国です。
 休みに入る前は疲労からか、体温が35度迄しか上がらず、8月だというのに冬用の下着を着てもまだ寒く、鳥肌を立てて震えておりました。でも今は36度4分まで戻り、体がとても軽く感じられます。

 10月31日から今月(04年11月)にかけて、先日(04年9月26日)の「西沢純子大正琴スタジオ創立15周年記念リサイタル」の模様が福井ケーブルテレビで、2時間番組に仕立てられ延べ9回放送されます。いつもなら忙しさに追われ、ビデオに録画したとしても、それすらなかなか見ていられないのに、今回はしっかりと2回も見ることが出来ました。
 生徒さんたちのひたむきな演奏姿と美しい合奏の響きにテレビの前で感動の涙を流しながら、各ステージごとに力一杯拍手を送りました。よくぞここまで上達して下さったと感謝、感謝です。それぞれ、いろいろ、ご家庭の事情を抱えている筈なのに、それでも休まず努力され、時には、仕上がり速度の遅い人を励まし待ってあげ、本番の9月26日にはそれぞれのグループがしっかりと素晴らしい演奏をされました。

 今回のリサイタルを、一人の観客として、三部の私自身のステージも含めて2時間という時を飽きることなく、感動のうちに鑑賞することが出来ました。
 フイナーレの場面で、特別ゲストの白井敦夫さんを始め、奥下順造さん、三寺幸雄さん、あっぷるずのメンバーの皆さん、大勢の生徒さんが華やかに勢揃いした、その中央に立っている、この『西沢純子』という人は、なんと幸せな人なんだろうと思いました。

『結果』はそれを導いた『努力』を裏切らない!!

 改めてそう確信しました。

 それでは又この部屋でお目にかかりましょう。

2004年11月3日

 第15回リサイタル 写真・動画入り活動記録へリンク

 特別出演の白井淳夫様のプロフィールへリンク

 

スローライフ

 

 疲労蓄積からしばらく完全休養していた私に、音楽監督である三寺幸雄さんの「西沢さん、仕事はゆっくりゆっくり元のペースに戻せばいいからね」という言葉に甘えて、現在7割くらいのペースで仕事に戻っている。

 午前中少し時間のとれた分、自宅の庭を歩いてみた。
 主人の祖父の代に事業に成功し、1,000坪の敷地に築山を備えた庭を擁した立派な屋敷を建築。主人は、子供の頃は女中さんやばあやに囲まれた、所謂(いわゆる)「贅を尽くした生活」を送っていたらしい。その後、福井大震災
(注1)で屋敷も庭も全壊し、終戦による農地解放で年貢もなくなり、かといって明治生まれ乍ら大学卒の舅はそれ迄近隣の人達から「大旦那様」と呼ばれてきたプライドが、今更働きに出ることも許さず、止むを得ずの筍生活の中、追い討ちをかけられるように姑に6人の子を残して先立たれ、いうに言われぬ苦労が在ったらしいことは想像に難くない。

 町育ちで、比較的裕福に愛情一杯に育くまれた私が、西沢家の家風と生活に馴れるには、それ相応の時間を要したが、コーヒーブレイクの初めのところで触れてあるのでここは割愛致します。

 嫁いでからは毎日々、家の中と仕事を駆け足で走り回っていたので、自宅の庭の隅のほうは歩いたことが無かった。今回はじめてゆっくり歩き色々な物を見つけた。贅を尽くして誂えたもので、地震で潰れた家屋の下から捨て難い物を掘り出して積み上げておいたのだろうか。立派な鬼瓦や手水鉢や沢山の瓶を見つけた。
 試しに水洗いしてみたら、なんとも色鮮やかに甦った。「地震後55年もほったらかしにしておいてごめんね!!」と謝りながらオブジェとして庭に置いてみた。

 私は今まで忙しく忙しく脇目もふらず前ばかり見て全力で走り続けてきたので、周囲の素敵な事や物に気づかず、見落としてきたことがたくさんあるに違いない。

 スローライフ!!

 これからは、少し足元や周囲を見るこころの余裕を育てたいと思います。

 

 それでは又この部屋でお目にかかりましょう。

2004年12月6日

注1
福井大震災:1948年(昭和23年)6月28日17時13分(夏時間)
(当時はサマータイム制をとっていたため、現在の時刻では16時13分)
震央:北緯36.17度、東経136.20度
マグニチュード:7.1 直下型地震
死 者:3,728人
負傷者:21,750人
家屋全壊数:35,382戸
火災による焼失家屋:3,851戸

日曜日の顔

 

 今日は、久しぶりになぁんにも予定の無い曜日!! う・れ・し・い!!

 時代物の玄関の羽目板が先日の強風で剥がれた。修繕のために、朝から大工さんがトンカン・トンカン仕事をしているので、お茶の用意だけはしなければいけないが、それ以外は100%自由日。

 化粧もせず、髪も手でさっさっと梳かしただけで、心も身体も、顔の表情も『曜日』だ。

 毎日、起床時には同じ顔だが、鏡に向かって化粧をしていくうちに、その日のスケジュールによって、だんだんとその日の『役柄(演奏家・講師・指導者・経営者…)』の顔つきになり、洋服を着終えるころは将に完璧。『声』まで『役』に成り切って「ヨーシ!!」という気合いで家を出て行く。

 これが上手く行くかどうかが、その日の仕事の出来具合に影響してくるので、私にとっては、この『儀式』は大切なことなのだが、家族はいつも「妻や、母たる」私のことを、呆れ返って眺めているに違いない。

 私は、何事にも誠心誠意、真心を込めて取り組む性格だと自負しているが、スタッフに言わせると『単純このうえない人』らしい。
 私自身が神経質なことと、短い時間に没頭して練習したいため、家事を終えて、家族からの呼び出しや、又、親戚や生徒さんからの電話も入らなくなる真夜中が私の練習する時間になる。

 ひばりさんの「悲しい酒」を練習するときは、まるで私がうらびれた場末の酒場の片隅に一人ポツン!といるような気になり、寂しくて、悲しくて涙がポロポロ出てくるし、村田英雄さんの「無法松の一生」を稽古する時は「美しい未亡人の奥様に寄せるやるせない、かなわぬ男心を太鼓のバチに託して叩く無法松に成り切って練習するので、振る舞いや独り言が男っぽくなる。その場に居合わせた人がこの様子をみたら、「西沢純子は気が触れた??」と思うかもしれない。息子などは冷ややかに「お母さんは女優の方が向いているんじゃないの?」など勝手なことをいう。

 本当は今日は文学的(?)随筆「親の心子の心」を書くつもりだったのに、頭の中が「曜日」になっているので、横道にそれてしまった。次回は随筆家の化粧をして机に向かいます。乞うご期待を!!

 それでは又、この部屋でお目にかかりましょう

2004年12月26日()

 

総合目次ページ

2003年制作
 徒然なるまま

2004年制作
 15周年記念リサイタル

2005年制作
 文化芸術賞受賞
 

2006年制作
 ヴェガ誕生コンサート
 

2007年制作
 エッセー集出版

2008年制作
 初めての指揮者体験

 

コーヒーブレイクが、1冊の本になりました。
 <2007年10月発刊

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エッセイ集コーヒーブレイクその1

 

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大正琴奏者西沢純子の部屋
JAPAN player Nishizawa Junko's Room

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2008.3.3 UpDate