例年にない大雪の為、講座の休講が多く、寒がりの私は炬燵に潜り込む日が続いている。頭の中では「あれもしなければ、これも…。」と思いつつも、一旦炬燵の温もりにはまり込んでしまうともうアウト!で、なかなか抜け出せない。
実は、2006年2月6日に、私は子宮癌の手術を受けなければならない。2月2日に入院の予定だが、それまでに、様々な検査を受けなければならず、私が留守の間の段取りの準備が山ほどあるのに、炬燵に入って余りの気持ち良さについウトウト!
癌のほうは幸い早期発見だし、人間の寿命は生まれた時から決められていると思っているので、ジタバタしても仕方なく、手術には何の心配もしていない。
しかし私の寿命は神様しか知らないし、万に一つ、否、億に一つの時のことも考えて、二階の掃除をしておかなければ…。(一階は来客があり、主婦西沢純子としてのプライドに関わることなので常に掃除をしているが、二階はプライベートな住まいなので未だに夏ものが置いてあったりする…。)仏壇に私のお気に入りの写真も入れておこう…。しかし誰も用意しておいた写真に気が付かなくて、変な写真を飾られたらどうしょう…。だけど余り用意周到にしておき、神様が慌てて迎えにこられても困る…。などと考えながら、体がカーペットに接着したごとく何もしないで寝ている。
私は3年前にも甲状腺癌の手術を受けているし、17年前には胆石を69個も溜め込んで胆のうを切除している。これでは全く「切られの与三郎」も顔負けだ!。
だが、たかが癌ごときに、私の命を譲る訳にはいかない。!!
「アコースティック大正琴ベガ」を生み出したばかりで、現在はアンサンブルのメンバーの数を制作中だ。
従来の大正琴をアンプ等を使用せずに演奏し、当然ではあるが音が小さいため、それをマイクで拾い会場のスピーカーから流して「生音で演奏」といっているのは誤解を招く。演奏者にとっては生音と言い得ても、会場のお客様にとってはマイクとスピーカーを経由することにより、もはや生音ではなくなってしまっているからである。
一方「アコースティック大正琴ベガ」は共鳴板そのものが大きく出来ており、又、構造的にも共鳴を容易にする工夫をした為に、楽器自身の発する音が従来の何倍も響き、マイク、スピーカー等の力を借りなくても、大正琴の弦楽器としての本当の音色を直接、会場のお客様に楽しんで頂けるのだ。「アコースティック大正琴ベガ」を得て、常日頃、訴えてきた「大正琴は弦楽器」の実現の緒についたばかりだ。とても死んでいる暇などはない!!
3月11日には私の住まいしている「春江町」の閉町式典で演奏を依頼されている。(2006年4月1日より春江町、坂井町、丸岡町、三国町の四町合併で坂井市となる。)4月には「アコースティック大正琴ベガ」のデビュー演奏会の予定、5月にはストリングフェスティヴァル…と忙しくなる。
ここ迄書き進んできたら、炬燵に取り付かれてボーッとしていた頭の血が騒ぎだした。寝てなんかいられない。よーし!掃除だ!!。
それでは又この部屋でお目にかかりましょう。
2006年1月14日
癌との闘いその2
美容院に行って髪を短く調えて来た。明後日(2月2日)の入院に備える為だ。病人と言えども、それなりに身ぎれいにしていたい。買い物もいろいろとした。私は寒がりなのであれこれとバックに詰めたら、海外旅行に行くくらいの荷物になってしまった。
初期の癌だから100%保証すると言われているが、人間のすることに絶対ということはない。万に一つの場合の備えも主人に言っておかなければ…と考えて「お父さん!(福井の方では主人を呼ぶときこのような言い方をすることが多い。)私の生命保険証はここ。この貯金は家の改築資金、これは長男の結婚資金…連絡すべき人達の電話番号はこれ…」と、話し始めたら「そんなこと急に言われても覚えられない、君が退院してきてから、ゆつくり説明してくれ!」とさっさと炬燵に入ってしまった。!!???
この人は120歳まで生きるだろう…。
3年前の甲状腺癌の時は、気の弱い主人のことを心配して手術のことを、ぎりぎりまで隠していたが、手術同意書に主人のサインが必要なため入院直前に話したら、主人は泣き出して仏間に入り「南無阿弥陀仏…」と唱え始めた。
チョット、チョット!! 私はまだ生きてるっちゅうの!!
おまけに翌日追突事故まで起こしてしまった。
今回は、もう、驚くことの免疫ができているから、泣き出しはしなかったが、毎日元気がない。「大丈夫だろうなぁ?。本当に大丈夫だろうなぁ?。」と言わない日はない。
「だーいじょうぶ!大丈夫よ!130%保証されているのだから!元気出して!」と、私。
一体全体どちらが病人か分からない。???
さて!入院準備よし!さぁー頑張るぞ!
この気持ち何かに似てるなぁーと考えたら、リサイタルの一週間前に似ていた。闘いの気合い充分!気合だぁー!!
退院してから、又、この部屋でお目にかかりましょう
2006年1月31日
癌との闘いその3・退院
2月18日(土曜日)無事退院致しました。ホームページをご覧頂きご心配頂いた皆様、お見舞いメールを頂戴した皆様本当に有り難うございました。こころより御礼申し上げます。
さて、福井大学医学部付属病院での入院中の17日間は、時間がゆったりと流れていたはずなのに、過ぎてしまうと、あっ!という間の短い期間でした。2日に入院し、6日の手術日までは検査と診察の時間を除き、持ち込んだ本を読んで過ごすのが日課でした。
窓から眼に入る外の景色は真綿を小さく千切って風であおるように、はらはらと小雪が舞い降りる冬景色なのに、ガラス一枚隔てた院内は素足でいられるような暖かさで、春の陽気の中で本を読んでいるような心地よさは、私は何のために此処に居るのかすら、すっかり忘れてしまう程でした。
検査の結果、私は子宮内膜異型増殖症と診断され、子宮と卵巣を摘出することとなった。
2月6日手術当日、朝8時、処置室にて手術の為の準備が始まった。手術着に着替え麻酔が掛かりやすいように注射を打たれ台車に乗せられてゴロゴロと手術室に運ばれた。この時点になっても未だ「これから手術!」という実感が湧かずにいたが、手術室入り口で半ベソをかいて立ち尽くしている主人の姿を見て、ようやく「手術」の実感が湧いて来た。
私は大きな窓のような入り口から、横滑りで手術台に乗せられ移動させられた。私には黒川医師、宮崎医師、栗原医師の3名が担当に付き、しかも手術は、高名な小辻教授が直々に執刀して下さるという幸運に恵まれた。
私を乗せた手術台が所定の位置に運ばれると数名の方達が甲斐甲斐しく準備を始められた。黒川医師が静かに私の手を握られた。何かの準備をはじめられるのかなと思ったがそうではなく、準備の間中、只、握っていられるだけでしたが、その手からは「西沢さん、大丈夫!私達全員で貴女をお守り致します。心配しないで良いですよ!」と、いうメッセージが伝わって来た。それはとても暖かいやさしい御手だった。私も「先生!有り難うございます。宜しくお願いします!」と、手で応えた。黒川先生のやさしさに安心しているうちに、次第に意識が遠のいて行った。
「西沢さーん!」という問いかけに反射的に「はい!」と応えた。「わーっ!しっかりしている!」という声が耳元で聞こえる。「ん!何がしっかりしているの??!!私はとても気持ち良く寝ていてまだまだ眠っていたいのに…」と、うつらうつら。夢の中で私を乗せた台車が電車のように動きだし、それとともに意識も戻り始め目が覚めたとき私は自分の病室にいた。酸素マスクを掛けられ、心配そうに覗き込んでいた主人と目があったとたん、安心したのかハラハラと主人は涙を拭った。やっと「手術が終わった」ことが理解出来た。
退院まで小辻教授は勿論3名の医師達、それに看護師長さん始め看護師さん達から、本当に頭の下がる手厚い看護を頂きました。特に3人のお医者様は平日は勿論、土、日にいたるまで朝晩「いかがですか?」と御尋ね下さる。「一体先生方にはお休みというのがおありになるのかしら?」と、心配になる程で、つい、「先生お体に気を付けて!」と、声を掛けそうになった。病人がいうのも変なので、慌てて言葉を飲み込んだが…。
今回、私は「生かされている」ことの有り難さをつくづく思い知らされた。人間は一人では生きられない!「生かされている」のだ。生きて行く上で大勢の人々或は動植物そして自然に護られ「生かされている」のだ、ということを実感させられた。
限りある命だからこそ、一日一日を無駄に生きてはならない…!
それでは又この部屋でお目にかかりましょう
2006年2月20日
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