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いろいろなエピソードを綴っていきたいと思っています。
2008年制作の最新号のエッセイです。
Episode in my life.

2008年制作 初めての指揮者体験 

初めての指揮者体験 ●人間雪だるま ●手紙 ●三寺幸雄さんへ

総合目次ページ

2003年制作
 徒然なるまま

2004年制作
 15周年記念リサイタル

2005年制作
 文化芸術賞受賞
 

2006年制作
 ヴェガ誕生コンサート
 

2007年制作
 エッセー集出版

2008年制作
 初めての指揮者体験

初めての指揮者体験

 

 2008年になって、初めてのコーヒーブレイクタイム。
 書く事はたくさん有ったが、心が気ぜわしく、パソコンに向かう気持ちになれなかった。
 まず、1月14日に行われた例年のニューイヤーコンサート! 音楽監督で指揮者の三寺さんの都合で、私が、代わりに指揮を努める事になった。指揮の勉強などした事も無い私が、「ヴェガ合奏団」42名の指揮をするのだ。

 初めの合図でその曲のテンポが決まる。84個の目玉が私の指先をじっと見つめる。
 フェルマーター、リタルダンド、クレッセンド、デクレッセンド、拍子の変更等、演奏に当たっていろいろな約束事がある。その度に84個の目玉が私の指先に集中する。
 2曲目のイントロの部分で、フェルマーターからテンポが変わる時、1拍早く出てしまった人がいた。2〜3人吊られて後に続いた。3〜4人は正常のテンポで入って来た。他の人は弾かずにどうしたらいい私の手を見ている。
 私は背筋が凍り付いたが、心の中で(ついて来てえー…)と叫びながらひときわ大きく指揮をした。全員が揃って入って来た。よし!!と叫びながら、なんとか無事その曲を終えた。他の曲は無事納得の演奏をし終えた。

 オウディエンスのみなさまからは「ヴェガ合奏団」の優しく癒される演奏に好評を頂いた。2〜3日徹夜した程疲れた頭で帰りの車を運転し、交差点を渡り終えようとして、何気なく上を見上げたら信号は「赤」になっていた。交差点に黄色で入って、赤になったばかりか、それとも、赤信号なのに交差点に入ったのか、全く記憶がない。赤信号で交差点に入ったとしたら、よくぞ左右から車が来なかったものだと、幸運に感謝するとともに、事故のことを想像して鳥肌が立った。

 家に帰り着くなり、炬燵に倒れ込むように寝込んでしまった。「何が有っても大丈夫な女イコール西沢純子!!」と私のイメージが定着しているようですが、実体は、6曲の指揮をしただけで、疲れ果てて、綿のように寝込んでしまう、「か弱い女」なのです。以後ご承知置きくださいませ!!オ・ネ・ガ・イ!!

 それでは、又、この部屋でお目にかかりましょう。

 皆様に取って本年が良い年で有りますように…。

2008年1月27日

 

 

人間雪だるま

 

 2008年2月17日日曜日、朝カーテンを開けたら、外は一面の銀世界で、雪が斜めに降りしきり、厚手の真綿に覆われたごとく、すべてがこんもりと雪に覆われていた。
 福井地方はその日だけで三十数センチの積雪があった。そんな中、息子が玄関から門迄の通路を、まるで熊が雪穴を掘るごとく、スコップで、すくっては投げ、すくっては投げしている。通路に敷いて有る笏谷石(しゃくだにいし…昔、福井でよく採掘された緑色の石だが、今はもう採れない)は、途中蛇行しているので、門迄は40メートル近くある。1時間以上掛かって通路を確保した。
 門の外に車庫があり、車庫の前は車がUターンして車庫に入れられるように、又、来客用にと、詰めれば4〜5台は止めれるスペースがある。この雪を農業用用水路まで捨てるのが大仕事だ。

 私も少し手伝う事にした。ママさんダンプ(雪の上を滑らせながら運ぶための超大型特別スコップ)を持ち出して、人間ブルドーザーを繰り返した。少し手伝うつもりが、息子の流れ落ちる汗を見ていたら、もう少しもう少しと、している内に、右手の親指の内側に鋭い痛みを感じた。
 見たら手の皮がぺろりと剥けていた。体は完全武装なのに、少しの手伝いのつもりだったから軍手をはめなかったのだ。しまった!と思ったがもう遅い。赤い身がまあるく顔を出している。
 こういう時は、屋敷の広さが仇になる。手伝いを止めて、玄関先に向かったら、大切な赤松の枝が今にも折れそうに雪でしなっている。こういう時の為に用意してある長い竹の棒で枝を一本一本叩いた。

 ドサドサッ!と雪の固まりが頭上に落ちて来て、私は雪だるまになった。

 子供たちが小さい頃は私も若く、雪が嬉しくて大雪が降ると、子供達と一緒にかまくらを作ったり、雪下ろしした雪で、一階が雪に埋まってしまったのをいいことに、屋根からそのままスキー場作りをして楽しんだ。

 でも、もうその元気は無い。うっすらと積もった雪景色は美しいが、雪かき迄しなければならない雪はもういらない!。

 その後晴天が続き道路上の雪はほとんど消え、私の手の怪我だけ残っている。

 我が家の庭は苔庭なので、苔の上には未だ雪が残っている。リビングのガラス戸に机を向けてこの原稿を書いていたら、直ぐ目の前を雄のキジがゆったりと尾っぽを揺らしながら歩いている。雪で人間の匂いが消されたから、安心して散歩に出て来たらしい。木の上にも雌のキジが2〜3羽いる。家族かも知れない。

 雄のキジの羽の何と美しい事!!エメラルドグリーン、コバルトブルー、翡翠、メキシコオパール、等等書き切れない色で、ガラス戸一枚隔てただけの近さで、私を見ている。時折、首を左右に振りながら…。

 雪かきのしんどさも、手の痛みも暫く忘れて見とれていた。今日は何か良い事が有りそうな…。

 それでは、又、この部屋でお目にかかりましょう。

2008年2月26日

コーヒーバー

 

手紙

 

 懐かしい友人から手紙が届いた。
 私が「ヴェガ誕生記念コンサート」と「西沢純子オンステージ」の DVDと、コーヒーブレイクの本を送った、その返礼である。 友人の手紙は私に懐かしい娘時代を思い起こさせた。

 私は娘時代「巨橋パーティ」というサークルに11ヵ月間入会していた。
 そこは福井市にある正善寺というお寺で、そこの住職御夫妻が若い人達にお寺を解放し、いろいろなサークル活動が行われた。例えば、書道の心得のある人は、其の人が先生となって書道クラブを、という活動の仕方であった。
 私は病院に栄養士として勤務していたので料理クラブと、更に、裏千家のお抹茶を少々習っていたので、時々茶会を開いたりした。

 その「巨橋パーティ」の山岳サークルの「初心者歓迎」という言葉に惹かれて、夏の白山登山に参加した。
 前日の夜、車で白山の麓迄行き、そこで車の中で仮眠して、未だ暗いうちから山に登り始めた。男性達と同じ車の中なので、純情可憐(?)な私は不慣れのあまり、緊張し、眠れないままベテラン登山家達に前後を守られて、雨の中を出発した。
  女性参加者は私を含めて3名。その内2人は登山経験者でした。眠れないままの雨の登山は、私の想像を遥かに超えた過酷なものだった。そうこうしている内、女性一人が吐き気を催しダウンし、もう一人の人も青い顔でダウン寸前。男性達が親切に介抱し彼女達の荷物を皆で手分けして担ぎ、肩を貸したりしていた。彼女達が頂上まで無事辿り着けたかどうかは承知していない。登山者は大勢いたし、私は青息吐息で、自分の事だけで精一杯!!。
 朦朧とする意識の中、「皆に迷惑をかけてはいけない!」という強い思いだけで持ちこたえていた。
 「何が初心者歓迎よ!!、経験者の女性が倒れているじゃないの!!、誰よ!!、こんなの計画したの!!、もう二度と登山なんかはしないぞ!! 」と怒りながら「死ぬかも…!」と思う程辛かった。

 誰かがレモンをくれた。
 普段なら一切れ食べるのも酸っぱいのに、その時は酸っぱいと思わず、まるまる一個かじり付いた。何とも言えず美味しかった。
 飴も回って来た。美味しかった。只々、黙々と黙々と肩で息をしながら頂上迄たどり着いた。その時、雨が上がり太陽が昇って来た。

「御来光だ! ! 」と誰かが叫んだ。
「わぁーっ !! 」と歓声が上がったが、私は心も体もふらふらで感動を味わう余裕が心に無かった。何の感動も湧かず、これから山を下るだけの体力が残されているだろうか…?、という心配の方が心を占めていた。

 雪に覆われた冬のある日 !! 。
 又々、「初心者歓迎」と言う言葉に、人を疑う事の知らない私は飽きもせず騙されて、参加した。

 生まれて初めてスキー板に付いている靴を履いた。教えられたのはここまで。後は皆の後についてリフトに乗り、頂上で飛び降りるや途端、皆くねくねU字形にターンしながら山を滑り降りて行く。私一人残された。こうなったら、滑り降りるしか無い。
 Uターンは出来ないので真っすぐにものすごいスピードで「どいてー!どいてー!」と叫びながら誰よりも早く麓に着き、止まり方を知らないので体を横に倒して、ズズズーッ!と10メートル程雪の上を引きずられるようにして止まった。
 今、思い出してもよく怪我をしなかったものだと「ゾッ」とする。

 皆に「何故私を心配してくれないの?」と、聞いたら
「河端(旧姓)さんは、何でも出来る人だと思うから」と言われた。実像と違う判断をされるのは損である。今でも多分にそういう所が有る。

 もちろん楽しい思い出もたくさん有る。

 夏の泊まりがけの海水浴 !! 。
 夜、昼間の太陽熱の残っている砂浜で、仰向けに寝そべって、手の届きそうな星空に感激した事。

 冬のドライブ !! 。
 鉛色に染められた海の、怒り狂った怒濤が繰り返し押し寄せるその反対側の山の斜面に、可憐に咲き誇る水仙の何と美しかったことか…。

 入会していたのはたった11ヵ月なのに、2〜3年在籍していた程思い出がたくさん有る。
 友人の手紙は私をタイムスリップさせ、しばし懐かしい感慨に浸らせた。
 コーヒーブレイクを読んだ感想として、手紙の中に

「しとやかで物静かな貴方の何処にその様な力が潜んでいたのか、改めて感心している処です…。」

と書かれてあった。

 そう…、私は娘時代は無口で物静かだった。結婚して36年の年月が私を強く逞しくした。

 これが良かったのかどうかは分からない。
 良かったのだろうか…?。

 それでは、又、この部屋でお目にかかりましょう。

2008年3月31日

コーヒーバー

 

 

娘時代

 

 懐かしい友から手紙が来て以来、私の心はタイムスリップしたままだ。庭に置いてある木製の椅子にぼんやり座ることが多くなった。
  そして、其の手紙の中の「コーヒーブレイク」を読んだ感想として「しとやかで、物静かな貴方の何処にそのような力が潜んでいたのか…。」という文面が頭から離れない。
 元軍人であった父は、礼儀作法に関して大変に厳しい人であった。又、毒有るものに関しては、一切私に見せない、触れさせない教育をした。清濁合わせ飲むとしたら、私は清だけ飲まされて育てられた。

 かってある人から
「貴女は試験管の中で無菌培養されて育てられた人ですね!」
と、言われた。

 又、ある人は、
「貴女は余りにも真っ白なキャンバスのような人ですね!。」
と、言われた。

 そして一様に
「男女共学の世の中で、未だ貴女の様な人がいるなんて…。」
と、驚かれた。

 そんな「わたし」は、今は、遥か彼方の人になってしまった。

 西澤本家の嫁としての責任、又、西沢純子大正琴スタジオの主宰としての責任、その他諸々の責務が私と言う人間を大きく変えた。いつも逃げないで矢面に立って戦って来た。いつの間にか「西沢さんだけは、何が有っても大丈夫!」とか「炎の人」と、思われるようになってしまった。

 本当に心底、私は強い人間に生まれ変わったのだろうか?

 こうして独りぼっちで庭椅子にぼんやり座って、樹木を眺めていると、心細さに押しつぶされそうになる。いつもいつも心に鉢巻きをして、さあ!頑張るぞ!と言い聞かせているだけだ!

「純子さん!もう、そんなに頑張らなくてもいいよ!」

「もっと自然体で、貴方の出来る範囲内で生きていけばいいよ!」

 樹木が、そして、風が、囁いているように感じられた。

 それでは、又、この部屋でお目にかかりましょう。

2008年4月29日

コーヒーバー

 

スペーサー

三寺幸雄さんへ

 

 三寺さん、今、貴方は何処にいらっしゃるのですか?

  片道切符だけを手にして、8月2日午後9時40分、電波の届かない所に旅立たれて、今日、9月19日で四十九日になるそうです。

 お話ししたいこと、相談したいこと、教えてもらいたいことが山ほどあります。
 お逢いしたいです。とてもお逢いしたいです。
 いいえ、お逢いしなければならないのです。帰って来て下さい!

 私は朝起きると、まず携帯に貴方からの伝言が入っていないか確認します。
 それからパソコンにメールが入っていないか確認します。
 仕事に出かける前、帰ってから、寝る前に同じ事を繰り返しています。
 スタジオ(プラザムージカ)に着くと、1階のみてら音楽事務所のドアを開きます。
 ブラインドの閉め切られた部屋は薄暗く物寂しい気配が漂っています。

 奇麗に片付けられ整頓された三寺さんの机の上には、華やかにお花が生けられ写真が飾られていて、椅子にはいつも羽織っていた上着が掛けられています。そっとその上着に触れてから、私は椅子に座ります。
 3台のパソコンと多くの音楽機材が私を取り囲んでいます。
 いつも音楽が流れていたこの部屋が、今は静寂そのもの。無言のまま暫く椅子に座り続けます。こころが落ち着く迄…。

 今にも、突然ドアが開いて「西沢さん!!何しているの?こんな暗い部屋で!1」
と、三寺さんのあのはじける様な相手に安らぎを与える笑顔が覗きそうです。
 私はその時を待って、何度もドアを振り返ります。
 それが無理…と、納得すると、三寺さんが仕事をしやすい様に、机の真上の明かりを付け、ドアを開けっ放しにして2階の私のレッスン室に向かいます。

 

 昨年(2007年)10月のリサイタルの時、貴方は腰が痛いと言い、椅子に座って指揮をしました。その頃は単なる腰痛、又は年のせいと軽く思っていました。
 ところが日に日に背中が曲がり、歩きにくくなり、指先の細かい仕事がしにくくなり、歩行困難になり、発声しにくくなり、病院巡りが始まりました。

 様々な診察を得て、神経内科に辿り着きました。原因がはっきりしないまま、見る見る私の目の前で病状が悪化し、やせ衰えて行き、5月に入って遂に私の方が倒れてしまいました。

 5月27日、三寺さんは難病中の難病である「筋萎縮証」( ALS)と診断されました。
 「現在の医療では治す方法がありません。少しでも進行を遅らせる為にリハビリしかありません」とのことでした。
 それから三寺さんのすざましいまでのリハビリとの戦いが始まりました。
 「絶対に進行を遅らせてみせる!!」との執念で、すでに呼吸筋に麻痺が起き始めていて、息苦しい中でも、一日も休まずリハビリに挑戦し続けました。

 7月28日、いつもより三寺さんの体調が良くないと感づいた奥さんが
「今日はリハビリ休もうか?」
と、問いかけましたが
「いや!行く!」
と言う三寺さんの返事でそのままリハビリに通いました。

 帰って来ると三寺さんは「疲れた!」とベットに横になりました。
 暫くしてベットから片足が落ちている三寺さんに奥さんが気づいた時には、既に心臓は停止していました。
  救急車で福井県立病院に運ばれた時には、脳死状態で、意識不明のまま8月2日午後9時40分、穏やかな笑顔のまま静かに息を引き取りました。
 最後迄諦めず、リハビリを頑張り通し、信じられない程のあっけなさで皆の前から姿を消しました。

 

 22年前(昭和62年)、大正琴の世界がまだまだ未開発の世界で、楽器として世間に認知されていない時、私と三寺さんは出会った。

 「西沢さん、僕は必ず、大正琴を弦楽器として世間に認知させる。西沢さんは奏法の研究、奥下さんは作曲、編曲、バンドマスター、僕は、演出、脚本、録音技師、舞台監督、プロデューサーとして、3人で大正琴の世界を開拓しょう!!」
という話し合いのもと、西沢純子大正琴スタジオを立ち上げ、ただひたすら、戦友として、同志として三寺さんを先頭に大正琴の世界を開拓し続けてきた。

 「アコースティック大正琴ヴェガ」を3年前に開発し、やっと音色も安定し「さあ!これから!!」という大事な時に三寺さんは突如姿を消してしまった。
  一番大切な大黒柱を私は失った。

 茫然自失、空虚、寂しさ、不安、悲しみ等々一時に私に覆いかぶさって来た。
 正直、家の中に閉じこもって誰にも会わず、西沢純子大正琴スタジオも解散し、膝小僧を抱えて、悲しみという大海原に小舟を出して、独りぼっちでひたすら疲れ果てる迄小舟を漕ぎ続けたい!

 でも、私には生徒さんに対する責任がある。
  泣き顔を見せれば皆さんを心配させる。
 三寺さんの奥さんも励ましてあげなければならない!
 私には夫が有り子供も居る。三寺さんの奥さんには子供は無く、三寺さんがすべてだった。私より遥かに遥かに悲しみは深いであろう。

 私は悲しんではいられない。私が泣くのはお風呂に入っているときだけ!!

『さあ!!西沢純子さん!!しっかりしなさいよ!
 奥下順造さんという素晴らしい作曲、編曲、ギタリストが貴方には付いていますよ!
 背伸びせず、片意地張らず、貴方の出来る範囲内で生徒さんを導いてゆけばいいのです。ゆっくり、ゆっくりでいいのです。
  辛くなったら、悲しくなったら、寂しくなったら、お風呂に入って思い切り泣きましょう!
  涙はこころを癒してくれますもの…』

 三寺さん、このコーヒーブレイク読んでいますか?
 私は見かけ程強くないのです。どうぞ、私を見守って下さいね!
 助けて下さいね!
 そして幽霊でいいから時々はお姿を見せて下さい!!

 

 

 

 

 

 

 謹んで、三寺幸雄さんのご冥福をお祈り申し上げます。

 

 

 それでは、又、この部屋でお目にかかりましょう。

2008年9月19日

コーヒーバー

 

 

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 徒然なるまま

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 15周年記念リサイタル

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 文化芸術賞受賞
 

2006年制作
 ヴェガ誕生コンサート
 

2007年制作
 エッセー集出版

2008年制作
 初めての指揮者体験

コーヒーブレイクが、1冊の本になりました。
 <2007年10月発刊

詳しくは、ココをクリック!

エッセイ集コーヒーブレイクその1

 

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大正琴奏者西沢純子の部屋
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2008.9.20 UpDate