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いろいろなエピソードを綴っていきたいと思っています。
Episode in my life.


2003年制作 徒然なるまま

 ●大正琴との出会い その1 その2 その3 
 ●旅のはじまり  その1 その2 その3 その4 
 ●徒然なるまま その1 その2 その3 その4

総合目次ページ

2003年制作
 徒然なるまま

2004年制作
 15周年記念リサイタル

2005年制作
 文化芸術賞受賞
 

2006年制作
 ヴェガ誕生コンサート
 

2007年制作
 エッセー集出版

2008年制作
 初めての指揮者体験

大正琴との出会い

 

-その1- 

「ストレスから来る自律神経失調症です。治療法として、何か趣味を持ちなさい。」
 医者からそう告げられたのは,結婚12年目の頃でした。

 不整脈、呼吸障害,目眩、吐き気、etc.……。

 縋(すが)るような思いで、たまたまテレビに映った“大正琴”をやってみようかしら……と思ったのが、私と大正琴との出会いでした。

 当時(1982年)は、主婦が趣味の時間を持つなど、許される状況では無かったので、家族の寝静まった夜半、蔵の中に入ってこっそり大正琴の練習を始めました。

 このときが“私と大正琴の至福の時間”の始まりでした。21年前のことです。

 それでは またこの部屋でお目にかかりましょう。

 

2003年6月28日

 

-その2-

 真夜中に蔵の中でたった一人、5〜6本の壊中電灯で明かりを取りながら自己流で大正琴を弾いていると、乾ききった大地が水を吸い込むように、私の心と体が生き返って来るのが分かりました。

 本格的に大正琴の勉強をしたいと思いましたが、教則本も無く、又、私が手本にしたいと思う指導者にも出会えず、それから、一人で研究を始めました。やがて大正琴は、私にとって掛け替えの無い友になり、恋人になり、私の分身になり...........つまり人生の支えとなってゆきました。そして、大正琴の可能性を模索し続ける私に素晴らしい出会いが訪れました。

 家族に内緒で研究を始めてから、表だって出来る迄の、語るも涙の物語は、いずれ折があればいたしましょう。

 それでは またこの部屋でお目にかかりましょう。

 

2003年7月1日

-その3-

 作曲、編曲家でギタリストの奥下順造さん、シンセサイザー奏者でプロデューサーの三寺幸雄さん、その三寺幸雄さんの紹介による大勢の音楽家の方々が、私の周りに集まって下さいました。そして、平成元年(1989年)11月 奥下順造さん、三寺幸雄さん、西沢の3人で、西沢純子大正琴スタジオを創設しました。

 大正琴は、演奏も楽器も未開発の世界でした。その為、一般的には、大正琴は惚け防止用ぐらいにしか認知されていませんでした。大正琴はドレミの西洋音階を使って演奏する日本で作られた唯一の洋楽器です。

 だから私たちは、大正琴の音色、演奏を生かす為の研究を始めました。

 詳しくは、後ほど「大正琴とは」のページで分かりやすく説明いたします。

 それでは またこの部屋でお目にかかりましょう。

 

2003年7月12日

 

旅のはじまり

 

-その1-

 楽器を始めるにあたって、バイオリンやピアノは、その楽器名故に尊敬されます。それに引替え大正琴は「あんなものをやっているの…?」と軽蔑にも似た目で見られます。

 確かに大正琴は、まだまだ未完成の楽器です。楽器メーカーが、大正琴を楽器という認識のもとで作っているとは到底思えません。所詮、素人の手慰みと思っているようです。もっとも、大正琴指導者の側にも問題があるようです。大正元年に、大正琴が作られてから100年近く経ているのに、楽器も演奏方法もほとんど変わっていないようで、大正琴を始めてから、不思議に思うことがたくさんございました。

 そこで、これらの疑問について私の正直な思いを話しました。すると、一般の音楽界からは、「大正琴を楽器と呼ぶのは迷惑!」と言われ、大正琴の世界からは「異端者」扱いされ、家族宛に非難、中傷の手紙や電話がまいりました。

 しかし、ここで怯んでは女が廃ります!!体の中のマグマが炎となって噴き出しました。

 ひとり静かに蔵の中で楽しんでいればよいものを、血の気の多いDNAが災いして、「大正琴は弦楽器」を証明する旅が始まってしまいました……。

 それではまたこの部屋でお会いしましょう。

 

2003年7月20日

-その2(運命の出会い)-

 一人で大正琴の研究をしていましたが、音楽の楽典のことも勉強しなければいけないと思い、当時、吹奏楽の世界で著名な武曽豊治先生を縁有ってお訪ねすることになりました。

 命じられるままに一曲弾きますと、先生から「良いね!才能がある!」といわれました。何がなんだか分からない内に次々と人前で演奏する機会を与えられ、いつのまにか「先生」或いは「大正琴演奏家」と呼ばれる様になっていました。

 この武曽先生との出会いがなかったなら、いまの私はありません。武曽先生にはとても感謝しています。でも独学で大正琴の奏法を会得しただけの私の演奏には自分自身納得できず、勉強がしたいと言う私と、このままで良しとする先生との意見の相違に悩んでおりました。

 そんな折、名古屋で演奏することになり、武曽先生が中学時代の教え子である三寺幸雄さんに演奏会の助手をお願いされました。このときは、将来一緒に仕事をすることになるとは夢にも思わず、また高校時代の同級生だということにも気づきませんでした。

 私の心の中に、自分の演奏にたいする不安は日々募り、不満足な演奏をすることが苦痛になってきました。先生のお考えと私の思いとの間に生じたズレはなかなか埋まらず、「演奏家」と名乗るのはやめようと武曽先生の元を去ることにしました。

 自宅にこもって1ヵ月、三寺さんから電話がありました。

 それでは、またこの部屋でお会いしましよう。

2003年8月24日

-その3(運命の出会い)-

 素人が大正琴を極めてみたいなどという事がそもそも間違いなんだ……。と自分に言い聞かせ静かな生活に戻って一か月近く経った頃、三寺さんから電話がありました。(三寺さんは39歳迄は会社員でしたが、40歳以後は自分の為の人生を送ると決めて会社を辞め、私と出会った時は、これからの自分の生き方を模索しようとしていたまさにその40歳の時でした。)

 三寺さんから、武曽先生の依頼で名古屋での演奏会の舞台助手をした時に、私の出す音が従来の大正琴の音色とは異なり表情に富むこと、私が舞台に上がった時に人を惹き付ける力が有る事、大正琴が大きな可能性を秘めた楽器で有る事を感じた旨を電話で話され、私がこのまま大正琴から遠ざかるのは惜しい、一緒に研究しようと諭されました。

 三寺さんは子供の頃から器楽合奏、ブラスバンド、マンドリンクラブ、吹奏楽団等に籍を置き様々な楽器や音楽に親しんできた人で多くの音楽家の方々と交流があり、何と、私の高校時代の同級生でした。
 私の心の中に大正琴への思いが再び湧き上がって参りました。知人のご夫妻のご好意で事務所を借り、そこで私のレッスンと大正琴の研究が始まりました。三寺さんの厳しく的確な指摘は「目から鱗」の連続で、今迄褒められるばかりだった私にとって大変収穫の多い時間でした。
 三寺さんが人生の再出発を考えた40歳の時に私と出会ったことは神様のお引き合わせとしか思えません。

 そして、神様は私にもう一人の「同志」を引き合わせて下さいました。

 それでは、またこの部屋でお会いしましよう。

2003年9月16日

-その4(運命の出会い)-

 三寺さんから、私に会わせたい人がいると紹介されたのが、ジャズギタリストで、作曲家、編曲家それに作詞家としても活躍していた奥下順造さんでした。後で聞いた話ですが、奥下さんは「大正琴の演奏」に或る種のイメージを持っていて、なかなか私に会おうとしなかったので、何度も飲みに誘って口説き落としたそうです。
 私の演奏を聞いて安心されたのか、それとも美味しいお酒のためかは定かでは有りませんが、私の為の作曲、編曲、バックバンド「あっぷるず」のバンドマスター(バンマス)をして頂けることになりました。

 そしてまたまたびっくりする事がありました。私の実父の兄、つまり私の伯父の妻(義理の伯母)の甥が奥下さんだったのです。言葉を換えると、私の伯父と奥下さんの伯母が夫婦なのです。なんと私と奥下さんは姻戚なのです。私が大正琴を始めた頃、その伯母から、甥も音楽をやっている(ギターに熱中していて困っている…??)と言う事は聞いていましたが、名前は覚えていなかったのです。そして子供の頃に二人とも伯父の家の祭りや行事に呼ばれて行って同席していたのです。何と言う不思議さ!!
 余談になりますが後に伯母の米寿祝いに伯母が書いた詩に奥下さんが曲を付け、私が演奏し、三寺さんがスタジオで録音し伯母にプレゼントしました。

 三寺さん、奥下さんとの出会いは不思議な運命としか考えられません。そして三人で大正琴の可能性や課題について様々なことを話し合いました。
 その結果、作・編曲は奥下さん、プロデュース・スタジオワークは三寺さん、私は大正琴演奏の為の奏法及び楽器本体の研究と役割分担を決め、新しい大正琴の有り方を目指して、平成元年11月1日、西沢純子大正琴スタジオを設立しました。

 それでは、またこの部屋でお会いしましよう。

2003年10月1日

 

徒然なるままに

 

-その1- 

 駆け足でスタジオ創立までの経緯をお話しましたので、ここでちょっとひと休みして、私の現在(いま)をお話いたしましょう。

 14回目のスタジオリサイタル(2003年9月28日)を終えて二週間あまり経つのに、未だに疲れが取れません。私生活のことで懸案事項を抱えていることも原因していると思い、気晴らしのため地元の春江町図書館に行きました。

 歌人の道浦母都子さんの「母ともっちゃん」の本がスッと目に止まりました。ここ数年読みたいと思っていた本だけど題名を忘れて探しあぐねていた本です。こんなこともあるんだ…!!と嬉しくなって窓辺に座り読みはじめました。
 何かのテレビ番組に出演されていらした道浦母都子さんを見て、人を包み込むようなやさしさ、穏やかな語り口に、この人の辿って来た人生を知りたいと思ったのです。少女時代のこと、両親のこと、学生時代のこと、歌人になったいきさつなどが淡々と書かれていました。
 涙が出るようなことは何も書かれていないのに、受け手の私の方に泣きたい条件が揃いすぎていました。止めどなく涙が溢れ、溢れ出る涙は不思議と心を癒しました。こんなに涙を流すのは久しぶりでした。

 20年前、蔵の中で大正琴を弾きながら訳も無く涙を流していた頃をぼんやりと思い出し、歳月の流れを思いました。

 今こういう気持ちの時に、読みたかった本を目の前に置いて下さった神様に感謝し、午後の仕事に備え車に乗り、ラジオのスイッチを入れました。
 〜<知らずー、知らずー、あるいーてきたー、細くー長いこの道ー>〜と、ひばりさんの歌(川の流れのように)が流れてきました。

 タイミングがよすぎる…!!思わず笑ってしまった!!

 少し元気が出て来ました。

 何事も勇気100倍、どんな時でも元気一杯、に見える私にもこんなフツーの面があるのです。

 それでは又この部屋でお目にかかりましょう。

 

2003年10月15日

-その2-

 2003年11月9日に次男が結婚します。子供の頃から何でも自分でする手の掛からない子供でした。…と、いうより私が自分のことで手いっぱいで、手が及ばなかったと言う方が当たっていると思います。

 "大正琴との出会い"のところで書いておりますが、私にとって生まれ育った環境も家風も違う嫁ぎ先で、良い嫁でなければならない…と、一途に思い込み、舅から言われた「嫁の心得」を一生懸命こなすうちに、私のこころと体が変調を来たし、お医者様の助言を得て、大正琴を始めましたので、母親としてゆったりと子供に接することも少なく、私自身を取り戻すことが精一杯の毎日でした。

 大正琴の魅力を一緒に追求しようという生徒さん達のために夜、教室に出かけようとすると、舅や主人から「母親が、夜出歩けば子供が不良になるぞ!!」と止められました。

 明治生まれの舅や公務員の主人にとって、心配するのは当然のことで無理からぬことです。玄関で仁王立ちになっている舅の前で、遅刻しそうになって思案にくれる私の前に小学校高学年の長男が走ってきて「おじいちゃん、行かせてあげて!! 僕、絶対に不良にならないから!!」と訴えてくれました。
 又、レッスンが延びて約束の帰宅時間より遅くなるときは、玄関の鍵をかけられる決まりなのですが、そんな時は必ず、次男が車の音を聞き付けて、抜き足差し足で玄関の鍵を開けてくれました。

 次男が結婚するにあたり、古いアルバムを眺めていたら、次男が9歳の頃、私にくれた手紙が出てまいりました。

『………お母さん、まいにちおそくまで、お琴のれんしゅうごくろうさま………ぼくは、お母さんをおうえんします。日本一のお琴のせんせいになってください……』
と書かれてあり、当時この手紙がどんなに私の励みになったかを、懐かしく思い出しました。そして、私は、子供達に助けられることのほうが多かったけれど、子供達は本当は寂しい思いをしていたのではないかしら…と、胸が痛みました。

 結婚を控え会社の寮住まいを終えて、最後の独身生活を久し振りの自宅で過ごす次男の為に、今、私は残り僅かな日々ですが、大正琴よりも母親業を優先させています。
 挙式当日、たくさんの思いを込めて、私が育てたエレガント・ストリングス・アンサンブルの大正琴演奏を次男に贈ります。

 それでは、又、この部屋でお目にかかりましょう。

2003年11月4日

 

-その3-

 2003年9月28日の第14回西沢純子大正琴スタジオリサイ終了後、各地の文化祭にその地区の生徒さん達と出演し、その中で次男の挙式も済ませ、疲労が極限に達した時点でようやく一連の演奏会が終了しました。

 例年はその中で、さらに来年のスタジオリサイタルの準備を同時進行させていましたが、今年は脳みそがストライキを起こし、その日その日を考えるのが精一杯の有り様でした。

 一段落した今、「暫く休みたい…!!」という気持ちと、「遅れている来年のリサイタルの準備を急がなければ…!!」という焦りがからまりあって、ラムネ玉(死語(^_^;))が喉につかえているみたいです。

 それでは、又、この部屋でお目にかかりましょう。

2003年11月26日

 

-その4-

 2003年12月3日午前5時50分、実家の弟から電話が入る。

「もしもしお姉さん!!僕!!お父さんが午前2時にトイレと間違えて階段から落ちて、頚椎損傷で入院した!胸から下が全部と両手の肘から下の神経が駄目らしい!!」

 病院に駆け付けた私の目に入ったのは、顔の両側に、砂袋を置かれ、顎と首を固定されてベッドに横たわる父の姿であった。88歳とはいえ、まだまだ現役で実家(いちょう材専門店、双葉商店)の仕事はもちろん、責任あるいくつかの役職を担っていた。ベッドの上で父は自分の現状を理解出来ず、数日で退院して仕事に復帰する気でいた。
「手足が重い。これは寝ているからだ。純子!起こしてくれ!家でリハビリすればすぐ動くようになる!」

 この父の後ろ楯がなかったら「大正琴奏者西沢純子」は存在しなかった。第1回目の西沢純子大正琴リサイタルの時、父は多くの自分の知り合いに、リサイタルのチケットとタクシーのチケットを送って人集めをしてくれた。
 舅と主人から「大正琴をこれから先も続けるなら親族会議を開く」といわれ進退窮まった時、父は
「人生は一度しかないし、身に付けた財産は、誰も取る事ができないのだぞ!
 悔いの無い人生を歩け!」

と応援してくれた。
 この日から真夜中の狂気にも似た練習がはじまり、舅から「頼むから寝てくれ!お前に死に水をとって欲しいのに、これではお前が先に死ぬ!」と言われ、ついには舅は私の応援者に変身してしまった。

 せめて父の首だけでも動かせるように、願わくばもう少し上半身だけでも動くように、一縷の望みをかけて、医師団は手術を考えているとのことだ。

 夜になり「明日又来るからね!」と言う私に「お父さんももうすぐ帰るから心配するな!」と父は答える。

 でも、父は私がいる間は精神が安定しているが、帰ると私の名を呼び続けるらしい。

 私の寿命が何年残されているのか分からないが、10年以上あるなら5年削られてもいい。それで父の残りの人生を人間らしく生きさせてあげたい!!

(父の知り合いの方がもしこのエッセイを読まれたら、どうぞお見舞いはご遠慮くださいませ。まだ絶対安静の身です)

 それでは、又、この部屋でお目にかかりましょう。

2003年12月6日

 

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2003年制作
 徒然なるまま

2004年制作
 15周年記念リサイタル

2005年制作
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2006年制作
 ヴェガ誕生コンサート
 

2007年制作
 エッセー集出版

2008年制作
 初めての指揮者体験

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大正琴奏者西沢純子の部屋
JAPAN player Nishizawa Junko's Room

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2008.3.3 UpDate