-その1-
駆け足でスタジオ創立までの経緯をお話しましたので、ここでちょっとひと休みして、私の現在(いま)をお話いたしましょう。
14回目のスタジオリサイタル(2003年9月28日)を終えて二週間あまり経つのに、未だに疲れが取れません。私生活のことで懸案事項を抱えていることも原因していると思い、気晴らしのため地元の春江町図書館に行きました。
歌人の道浦母都子さんの「母ともっちゃん」の本がスッと目に止まりました。ここ数年読みたいと思っていた本だけど題名を忘れて探しあぐねていた本です。こんなこともあるんだ…!!と嬉しくなって窓辺に座り読みはじめました。
何かのテレビ番組に出演されていらした道浦母都子さんを見て、人を包み込むようなやさしさ、穏やかな語り口に、この人の辿って来た人生を知りたいと思ったのです。少女時代のこと、両親のこと、学生時代のこと、歌人になったいきさつなどが淡々と書かれていました。
涙が出るようなことは何も書かれていないのに、受け手の私の方に泣きたい条件が揃いすぎていました。止めどなく涙が溢れ、溢れ出る涙は不思議と心を癒しました。こんなに涙を流すのは久しぶりでした。
20年前、蔵の中で大正琴を弾きながら訳も無く涙を流していた頃をぼんやりと思い出し、歳月の流れを思いました。
今こういう気持ちの時に、読みたかった本を目の前に置いて下さった神様に感謝し、午後の仕事に備え車に乗り、ラジオのスイッチを入れました。
〜<知らずー、知らずー、あるいーてきたー、細くー長いこの道ー>〜と、ひばりさんの歌(川の流れのように)が流れてきました。
タイミングがよすぎる…!!思わず笑ってしまった!!
少し元気が出て来ました。
何事も勇気100倍、どんな時でも元気一杯、に見える私にもこんなフツーの面があるのです。
それでは又この部屋でお目にかかりましょう。
2003年10月15日
-その2-
2003年11月9日に次男が結婚します。子供の頃から何でも自分でする手の掛からない子供でした。…と、いうより私が自分のことで手いっぱいで、手が及ばなかったと言う方が当たっていると思います。
"大正琴との出会い"のところで書いておりますが、私にとって生まれ育った環境も家風も違う嫁ぎ先で、良い嫁でなければならない…と、一途に思い込み、舅から言われた「嫁の心得」を一生懸命こなすうちに、私のこころと体が変調を来たし、お医者様の助言を得て、大正琴を始めましたので、母親としてゆったりと子供に接することも少なく、私自身を取り戻すことが精一杯の毎日でした。
大正琴の魅力を一緒に追求しようという生徒さん達のために夜、教室に出かけようとすると、舅や主人から「母親が、夜出歩けば子供が不良になるぞ!!」と止められました。
明治生まれの舅や公務員の主人にとって、心配するのは当然のことで無理からぬことです。玄関で仁王立ちになっている舅の前で、遅刻しそうになって思案にくれる私の前に小学校高学年の長男が走ってきて「おじいちゃん、行かせてあげて!! 僕、絶対に不良にならないから!!」と訴えてくれました。
又、レッスンが延びて約束の帰宅時間より遅くなるときは、玄関の鍵をかけられる決まりなのですが、そんな時は必ず、次男が車の音を聞き付けて、抜き足差し足で玄関の鍵を開けてくれました。
次男が結婚するにあたり、古いアルバムを眺めていたら、次男が9歳の頃、私にくれた手紙が出てまいりました。
『………お母さん、まいにちおそくまで、お琴のれんしゅうごくろうさま………ぼくは、お母さんをおうえんします。日本一のお琴のせんせいになってください……』
と書かれてあり、当時この手紙がどんなに私の励みになったかを、懐かしく思い出しました。そして、私は、子供達に助けられることのほうが多かったけれど、子供達は本当は寂しい思いをしていたのではないかしら…と、胸が痛みました。
結婚を控え会社の寮住まいを終えて、最後の独身生活を久し振りの自宅で過ごす次男の為に、今、私は残り僅かな日々ですが、大正琴よりも母親業を優先させています。
挙式当日、たくさんの思いを込めて、私が育てたエレガント・ストリングス・アンサンブルの大正琴演奏を次男に贈ります。
それでは、又、この部屋でお目にかかりましょう。
2003年11月4日
-その3-
2003年9月28日の第14回西沢純子大正琴スタジオリサイ終了後、各地の文化祭にその地区の生徒さん達と出演し、その中で次男の挙式も済ませ、疲労が極限に達した時点でようやく一連の演奏会が終了しました。
例年はその中で、さらに来年のスタジオリサイタルの準備を同時進行させていましたが、今年は脳みそがストライキを起こし、その日その日を考えるのが精一杯の有り様でした。
一段落した今、「暫く休みたい…!!」という気持ちと、「遅れている来年のリサイタルの準備を急がなければ…!!」という焦りがからまりあって、ラムネ玉(死語(^_^;))が喉につかえているみたいです。
それでは、又、この部屋でお目にかかりましょう。
2003年11月26日
-その4-
2003年12月3日午前5時50分、実家の弟から電話が入る。
「もしもしお姉さん!!僕!!お父さんが午前2時にトイレと間違えて階段から落ちて、頚椎損傷で入院した!胸から下が全部と両手の肘から下の神経が駄目らしい!!」
病院に駆け付けた私の目に入ったのは、顔の両側に、砂袋を置かれ、顎と首を固定されてベッドに横たわる父の姿であった。88歳とはいえ、まだまだ現役で実家(いちょう材専門店、双葉商店)の仕事はもちろん、責任あるいくつかの役職を担っていた。ベッドの上で父は自分の現状を理解出来ず、数日で退院して仕事に復帰する気でいた。
「手足が重い。これは寝ているからだ。純子!起こしてくれ!家でリハビリすればすぐ動くようになる!」
この父の後ろ楯がなかったら「大正琴奏者西沢純子」は存在しなかった。第1回目の西沢純子大正琴リサイタルの時、父は多くの自分の知り合いに、リサイタルのチケットとタクシーのチケットを送って人集めをしてくれた。
舅と主人から「大正琴をこれから先も続けるなら親族会議を開く」といわれ進退窮まった時、父は
「人生は一度しかないし、身に付けた財産は、誰も取る事ができないのだぞ!
悔いの無い人生を歩け!」
と応援してくれた。
この日から真夜中の狂気にも似た練習がはじまり、舅から「頼むから寝てくれ!お前に死に水をとって欲しいのに、これではお前が先に死ぬ!」と言われ、ついには舅は私の応援者に変身してしまった。
せめて父の首だけでも動かせるように、願わくばもう少し上半身だけでも動くように、一縷の望みをかけて、医師団は手術を考えているとのことだ。
夜になり「明日又来るからね!」と言う私に「お父さんももうすぐ帰るから心配するな!」と父は答える。
でも、父は私がいる間は精神が安定しているが、帰ると私の名を呼び続けるらしい。
私の寿命が何年残されているのか分からないが、10年以上あるなら5年削られてもいい。それで父の残りの人生を人間らしく生きさせてあげたい!!
(父の知り合いの方がもしこのエッセイを読まれたら、どうぞお見舞いはご遠慮くださいませ。まだ絶対安静の身です)
それでは、又、この部屋でお目にかかりましょう。
2003年12月6日
|