定かではないが深夜2時頃だったと思う。夫は蝋人形のように白くなって、救急車のベッドに縛られていた。その横で私は車内の備え付けのソファーに座り、何にも考えられず、ただぼんやりと座っていた。救急車はピーポー・ピーポー…と悲しげな音を撒き散らしながら、福井大学医学部付属病院に向かって走っていた。
夫は福井市役所を定年退職後、晴耕雨読の生活に入り、至極のんびりと庭いじりや、囲碁を楽しんでいた。夜は8時頃になると、うとうとと寝始め、早朝4時か5時頃に起きて庭の苔の手入れをするのが日課だった。雨の日には傘を差して苔の手入れをしていた。
ところが昨年(2006年)公民館長を拝命してから夜の会合が続き、就寝時間が12時を過ぎる事が日常的となってしまった。長年の習性で朝早く目が覚めてしまい、睡眠不足の日が続いていた。特に、ここ一ヶ月程は3時頃になると目が覚めて眠れず、階下に降りて朝までテレビを見ているという生活が続いた。
このままでは健康に障ると思い、私が常用している睡眠導入剤を11時頃飲ませ、「早く二階で休んでね!」と、言ったら眠そうに一階の居間の炬燵から出て行った。夫はてっきり寝室に向かったものと思っていた。私は息子が連絡もなく未だ会社から戻らないので、事故にでもあったのではないかと心配し、そのまま炬燵で息子の帰りを待っていた。
深夜12時半頃に息子は帰って来た。会社の新製品の製造に携わり、緊張の連続によるストレス解消と勉強を兼ねて、本屋さんを梯子して来たらしい。「お給料を頂くということはいろいろあって当たり前よ!」と、息子と1時間くらい炬燵で話をしていた。
夕御飯が未だだと言うから何か作ってやろうと台所にいった。リビングの食卓テーブルと私のパソコン机の間に黒い大きな固まりが手足を微かに痙攣させて大の字になっていた。
瞬間『熊!!!』と思った。近頃は食料を求めて町中にも現れる(事実福井市内の大型小売店で熊が捕獲されている)というニュースがよく新聞に載っている。市内の我が家には私の大好物の酒の糟が大量に買い込んである。
「さては、壁でもぶち破り入り込んだか!」格言に従い死んだ振りをしようかと思ったが、どうも相手の方が先に死にかけているようなので止めた。そーっと歩いて電気を付けた。
ナ、ナンと!夫が腹這いになって寝間着のまま手足を痙攣させているではないか。
「お父さん!!どうしたの!!」と大声で呼び掛けるが、返事の無いまま「あわわわわ…」と言葉にならない声を出すだけで動けない。体は氷のように冷たい。
息子が「お母さん動かしちゃ駄目だ!」と叫ぶとストーブを近くに持って来て体を温め始めた。「お母さん!救急車!」と叫ぶ。私は傍に子機があるのに玄関横まで走って救急車を呼んだ。それから暫く記憶が途切れている。
お医者様と看護婦さんが夫の体温が34度程度しかないと、尋常ではない慌ただしさで動き回り、カーテンの中からは夫のうめき声だけが聞こえて来たところから記憶が甦って来た。私は誰もいない広い廊下で一人ぽつんと座っているだけだった。妙に心細くなって気が付いたら三寺さんに電話していた。携帯が夜中の3時を差していた。診察室が慌ただしくなって、先生と看護士さんがCT室へ向かって小走りに夫を運んでいった。
どのくらい経ってから戻って来たのだろうか?。
先生から「話があります」と呼ばれた。最悪の結果を覚悟した。
「後、どのくらいの命!もしくは一生寝たきり」答えがぐるぐると頭の中を一人で走り回っていた。
「奥さん!CTの異常は認められません。考えられるのは異常な睡眠不足から、奥さんが与えた睡眠導入剤が効きすぎたのでしょう。ご主人はまだ眠っておられますから、念のため明日もう一度検査してそれで異常が認められなければお引き取り戴いて結構です。ご主人は無意識に暴れて点滴を弾き抜いたりしますから、奥さんは一晩付き添ってあげて下さい。」
突然の展開に拍子抜けした!全身の力が抜けた!暫く茫然自失としていた。
おムツをさせられ「グヮ−!ガゥォー!」と、鼾をかいてお休み遊ばしている我が夫殿の顔をじーっと眺めていた。
だんだん腹が立って来た。男子たる者、たかが睡眠導入剤一袋ごときで救急車で運ばれるとは何事か!!根性がたるんでいる!夜の会合が続いたぐらいで寝不足になるとは何とだらし無い!
私を見よ!26年間ずーっと夜の教室を続けているのだ!帰ってから家事も翌日の準備もして、結婚36年間寝不足なのだ。だから少しでも早く休めることが出来るように睡眠導入剤を処方してもらっているのだ。
明け方夫は目が覚めた。なぜ自分が此処にいるのか理解出来ないらしい。私が事情を話すと「知らない間におムツをさせられて、恥ずかしいなー。もう町を歩けないなー!」と、のたまう夫!
だーれも、あなたがおムツをさせられたことなんか知らないわよ!!ばかばかしい!!
それでは又この部屋でお逢いしましょう。
2007年2月23日