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いろいろなエピソードを綴っていきたいと思っています。

Episode in my life.

2007年制作 エッセイ集「コーヒーブレイク その1」出版

取扱説明書 ●真夜中の救急車 ●勝手に「定年」延長 ●四日坊主 ●八つ当たり ●うたかたの人生 ●北海道旅行 その1 その2 その3 その4 ●ローマは一日にしてならず ●オーディション前 ●支えられて… ●願えよ、さらば叶えられん ●父が生きていてくれたなら…。 ●緋牡丹お純

 

総合目次ページ

2003年制作
 徒然なるまま

2004年制作
 15周年記念リサイタル

2005年制作
 文化芸術賞受賞
 

2006年制作
 ヴェガ誕生コンサート
 

2007年制作
 エッセー集出版

2008年制作
 初めての指揮者体験

取扱説明書

 

 私は「秀才」(中学まではそう信じていた)と迄は言えなくとも、どうしょうもない「アホ」ではないと固く信じている。なのに???取扱説明書を読んでも理解出来ない。何故あんなに分厚い、しかも細かい字で、その上到底理解不能な言葉の羅列の文章になるのか!書いている輩は「秀才」といわれながら育った、頭でっかち男に違いない!!
 まず1ページ目を読み始めると、めまいと吐き気がして来る。しかも苦労の割に理解出来ない。だから商品を買っても、腹が立つから取扱説明書は読まないことにしている。身の回りの電化製品は近くの電気屋さんで買って、お店の方から直接使い方を習う。親切丁寧に繰り返し教えて下さる。少々高かろうが今までこの買い方に徹して来た。

 ところがである。先日電話機が壊れた。早速いつもの電気屋さんで買おうとしたら、三寺さんが「西沢さん、僕が安くて便利な物を大型店で買って来て上げる」と言う。私は取扱説明書が理解出来ないことを言って、頑固に断ったにも関わらず、「説明書なんて、その通り順番にやっていけば大丈夫!西沢さんのような機械音痴でも分かる物を安く買って来てあげるから!」と、さっさと注文してしまった。
 配達して来た店員さんは、取り付けるだけ取り付けると「後はこの取扱説明書を読めば、誰でも分かるように書いてあります。」と一言、「あのー私は、取扱説明書が苦手なんです。簡単に説明して下さい」と私。「大丈夫です。本当に詳しく書かれてありますから、それに今からクーラーを直しに行かなければなりませんので!」と言い捨て、めまいしそうなほど、分厚い「取扱説明書」を置いて帰ってしまった。こんな本、誰がよむか!!私はそんな暇人ではない!!

 玄関脇に親機一台、他、子機3台を買って各部屋に置いた。親機は見たことも無い装置やボタンがいっぱい付いている。「留守」と「保留」は日本語が読めるから分かった。「ファックス」と「コピー」も苦労の末分かった。これでよし!

 ところが親機から子機へ、或いは、子機から子機への繋ぎ方が分からない。仕方なく説明書を読んだ。三寺さんに言われた通り書かれてある通りに試みたが繋がらない。何度も何度も読み返し、その通りに試すことを繰り返し一時間余が過ぎた。遂に、私の脳味噌がプッツンし悪態をつきだした。「此れを書いたのは、人間の脳味噌の構造を理解していない自己満足の輩の仕業だ!!」「100歳の老人だって電話を使うということを考えていないに違いない。此れを書いた輩は犬にも劣る大阿呆だ!!」

 以来4ヶ月間、電話が掛かって来ても、親機では絶対受け取らない。なぜならば本人が傍にいればいいが、二階とか他の部屋(我が家は田舎なので部屋が15もある)にいるとき大急ぎで大声で走り回って本人を見つけ出し、本人も大急ぎで親機まで走ってこなければならない。子機でとれば子機を持って大声で本人を探し出し子機を渡せばそれで済む。子機が3台あっても何の役にも立っていない。

 この間ついうっかり親機で夫への電話をとってしまった。探しまわったら本人は風呂へ入っていた。相手は大事な用件で急いでいるらしい。風呂に入っていると伝えたら子機を持っていって欲しいと言う。出来ませんとは恥ずかしくて言えない。
 仕方なく夫に「チョット電話の親機の所まで来て!急いでいるらしいから!」と言ったら、バスタオルでくるんでくれば良い物を、小さなタオルで前だけ隠して玄関脇まできた。夜なのでレースのカーテンから透けて見えるとまずい!。電気を消してストーブを傍に持って来て、その前で私が持って来たバスタオルと毛布にくるまって20分程話をした。完全に風邪を引いた。

 今でも電話がかかってくると、子機をもって、家中走り回り本人に手渡す。本人の傍には役立たずの子機がいかにも申し訳なさそうに、ちょこんと座っている。「あーあー…もし、子機を持って階段から落っこちたら、三寺さんの所へ電話機を抱えて化けて出てやるから!」

 それでは又この部屋でお逢いしましょう。

2007年1月25日

 

真夜中の救急車

 

 定かではないが深夜2時頃だったと思う。夫は蝋人形のように白くなって、救急車のベッドに縛られていた。その横で私は車内の備え付けのソファーに座り、何にも考えられず、ただぼんやりと座っていた。救急車はピーポー・ピーポー…と悲しげな音を撒き散らしながら、福井大学医学部付属病院に向かって走っていた。

 夫は福井市役所を定年退職後、晴耕雨読の生活に入り、至極のんびりと庭いじりや、囲碁を楽しんでいた。夜は8時頃になると、うとうとと寝始め、早朝4時か5時頃に起きて庭の苔の手入れをするのが日課だった。雨の日には傘を差して苔の手入れをしていた。

 ところが昨年(2006年)公民館長を拝命してから夜の会合が続き、就寝時間が12時を過ぎる事が日常的となってしまった。長年の習性で朝早く目が覚めてしまい、睡眠不足の日が続いていた。特に、ここ一ヶ月程は3時頃になると目が覚めて眠れず、階下に降りて朝までテレビを見ているという生活が続いた。
 このままでは健康に障ると思い、私が常用している睡眠導入剤を11時頃飲ませ、「早く二階で休んでね!」と、言ったら眠そうに一階の居間の炬燵から出て行った。夫はてっきり寝室に向かったものと思っていた。私は息子が連絡もなく未だ会社から戻らないので、事故にでもあったのではないかと心配し、そのまま炬燵で息子の帰りを待っていた。

 深夜12時半頃に息子は帰って来た。会社の新製品の製造に携わり、緊張の連続によるストレス解消と勉強を兼ねて、本屋さんを梯子して来たらしい。「お給料を頂くということはいろいろあって当たり前よ!」と、息子と1時間くらい炬燵で話をしていた。
 夕御飯が未だだと言うから何か作ってやろうと台所にいった。リビングの食卓テーブルと私のパソコン机の間に黒い大きな固まりが手足を微かに痙攣させて大の字になっていた。
 瞬間『熊!!!』と思った。近頃は食料を求めて町中にも現れる(事実福井市内の大型小売店で熊が捕獲されている)というニュースがよく新聞に載っている。市内の我が家には私の大好物の酒の糟が大量に買い込んである。
 「さては、壁でもぶち破り入り込んだか!」格言に従い死んだ振りをしようかと思ったが、どうも相手の方が先に死にかけているようなので止めた。そーっと歩いて電気を付けた。

 ナ、ナンと!夫が腹這いになって寝間着のまま手足を痙攣させているではないか。

「お父さん!!どうしたの!!」と大声で呼び掛けるが、返事の無いまま「あわわわわ…」と言葉にならない声を出すだけで動けない。体は氷のように冷たい。

 息子が「お母さん動かしちゃ駄目だ!」と叫ぶとストーブを近くに持って来て体を温め始めた。「お母さん!救急車!」と叫ぶ。私は傍に子機があるのに玄関横まで走って救急車を呼んだ。それから暫く記憶が途切れている。

 お医者様と看護婦さんが夫の体温が34度程度しかないと、尋常ではない慌ただしさで動き回り、カーテンの中からは夫のうめき声だけが聞こえて来たところから記憶が甦って来た。私は誰もいない広い廊下で一人ぽつんと座っているだけだった。妙に心細くなって気が付いたら三寺さんに電話していた。携帯が夜中の3時を差していた。診察室が慌ただしくなって、先生と看護士さんがCT室へ向かって小走りに夫を運んでいった。

 どのくらい経ってから戻って来たのだろうか?。
 先生から「話があります」と呼ばれた。最悪の結果を覚悟した。

 「後、どのくらいの命!もしくは一生寝たきり」答えがぐるぐると頭の中を一人で走り回っていた。

 「奥さん!CTの異常は認められません。考えられるのは異常な睡眠不足から、奥さんが与えた睡眠導入剤が効きすぎたのでしょう。ご主人はまだ眠っておられますから、念のため明日もう一度検査してそれで異常が認められなければお引き取り戴いて結構です。ご主人は無意識に暴れて点滴を弾き抜いたりしますから、奥さんは一晩付き添ってあげて下さい。」

 突然の展開に拍子抜けした!全身の力が抜けた!暫く茫然自失としていた。

 おムツをさせられ「グヮ−!ガゥォー!」と、鼾をかいてお休み遊ばしている我が夫殿の顔をじーっと眺めていた。

 だんだん腹が立って来た。男子たる者、たかが睡眠導入剤一袋ごときで救急車で運ばれるとは何事か!!根性がたるんでいる!夜の会合が続いたぐらいで寝不足になるとは何とだらし無い!

 私を見よ!26年間ずーっと夜の教室を続けているのだ!帰ってから家事も翌日の準備もして、結婚36年間寝不足なのだ。だから少しでも早く休めることが出来るように睡眠導入剤を処方してもらっているのだ。

 明け方夫は目が覚めた。なぜ自分が此処にいるのか理解出来ないらしい。私が事情を話すと「知らない間におムツをさせられて、恥ずかしいなー。もう町を歩けないなー!」と、のたまう夫! だーれも、あなたがおムツをさせられたことなんか知らないわよ!!ばかばかしい!!

 それでは又この部屋でお逢いしましょう。

2007年2月23日

 

勝手に「定年」延長

 

 たっぷりと水を吸い込んだ苔が、深緑色のエメラルドグリーンに輝く我が家の庭は、雨の日がよく似合う。一番眺めの良いリビングのガラス戸に向かって椅子を置き、ゆっくりとコーヒーを飲む。強い雨脚がガラスに当たって次々と流れ落ち、まるで歪んだレンズを通して庭を眺めているようで、それが又心地よく疲れを癒してくれる。

 今日は、福井市より南へ車で40〜50分の所に位置する越前市(旧武生市)で演奏をしてきた。越前市健康増進課の主催する「こころの講演会」で演奏する為に、「西沢純子とアンサンブルヴェガ」のメンバーと出向いた。出席予定が80名と聞いていたが、市の広報紙で私達の出演を知った方々がたくさん御越しいただいたのでしょうか、総勢160名の聴衆となり、追加の椅子を出したり、不足分のテキストをコピーしたりで、係りの方は大童であった。会場は超満席となった。

 指揮者の三寺さんが3日前に「おお腰」(ギックリ腰?)になり、首から下は激痛が走って曲げることが出来ない悲惨な状態での指揮となり、開会の挨拶の後、三寺さんの「え…私の場合こころの健康よりも、当面は体の健康の方が問題でして…」とスピーチが始まったら、お客様からドッ!と笑いが起こり、和やかな演奏会のスタートとなった。

 水を打ったように静まり返って聴き入って下さる聴衆!演奏も上々の出来であった。
 本番は午後1時30分からだったが、午前11時からリハーサルをし、昼食抜きで本番に臨む。お腹が膨れるとどうしても緊張感が薄れるからだ。演奏が終わり聴衆者から絶賛の拍手を頂き、レストランでお昼を頂いたのは3時頃。

 いい演奏が出来た喜び、大勢の方々が、雨にも拘わらず、駆けつけて来て下さった事への感謝、様々な満足感を胸に食べる昼食は格別に美味しい!
 これがあるからしんどくても演奏活動は止められない。

 スタジオを創立した時は60歳になったら定年退職をして、もっと他の好きなことをいろいろしたいと思っていた。「乗馬をしたいが、万一落っこちて怪我でもしたら、仕事に穴を開けることになる。スキーで転んで怪我をしたらこれまた迷惑をかける。旅行に行きたいが何時なんどき仕事が入るか分からない。等等。我慢我慢…」で通して来た。

 その60歳になった。定年を迎えた!!!。しかしながら、喜ぶべきか、悲しむべきか未だに、私め(西沢純子)のご指名で演奏依頼が来る。おまけに昨年(2006年)、国内で、否、世界で初の新型大正琴、500名位のホールならアンプもマイクもいらない「アコースティック大正琴ヴェガ」即ち「演奏者と聴衆が、同じ空気の振動を共有出来るアコースティック大正琴ヴェガ」を、とうとう作ってしまった。此の音が又素晴らしい !!。

 あ〜あ〜!私の定年はこれでは延長せざるを得ない。この素晴らしい音色を世界の皆様に知って頂きたい!!。日本人が発明した楽器は和楽器、洋楽器を通じ唯一大正琴しかない!!。しかも「アコースティック大正琴ヴェガ」の響きは、私達にしか出せないサウンドだ。もっともっと音楽愛好者の方達に聴いてもらいたい!!。大正琴とは思いもよらない琵琶のような外見をした、大正琴「ヴェガ」を見てもらいたい!!。

 体の方は大分ガタが来始めた。いつの日にか定年を迎えた時は、体がガタガタで、もう、乗馬やその他の事は、なんにも出来ないかも…?

 それでいい様な気もするし、少し寂しい様な気もするし……。

 それでは又この部屋でお逢いしましょう。

2007年3月24日

 

四日坊主

 

 足腰がめっぽう弱くなった。そこで、10日程前からスタジオのすぐ傍の足羽川堤防を歩くことにした。ここは桜100選に選ばれている名所で、堤防が数キロにわたって桜のトンネルになっている、今は柔らかい若葉が生い茂り、ここを歩いていると体中を新鮮な空気が通り抜けて行く。肘を90度に曲げ、歩幅を大きく取り、九十九(つくも)橋、花月(かげつ)橋、明里(あかり)橋、を通り過ぎた所で桜が無くなった。引き返そうかと思ったが未だ余力が残っていたのでもうひとつ向こうの水越(みずこし)橋まで足を延ばすことにした。
 途中二人の見知らぬ人から「あら!西沢先生ですね!いつも演奏会拝見しています」と声を掛けられた。私の顔はスッピンで髪も風任せ。ちょっと恥ずかしかった。これからは綺麗に化粧をして歩くことにしよう。

 道路を横切るのに交通量が余りに多いので河原に降りて、サイクリングロードを歩くことにした。
 橋を潜ったら、堤防の土手一面に鮮やかに菜の花が咲き誇り、ずっと向こうの橋のその又向こうまで菜の花は続いていた。照明灯やかがり火の用意がされており、夜の幻想的な様子が想像された。楽しくなった。私の歩く速度は早くなり歌が出て来た。「しあわせは〜歩いてこない。だーから歩いてゆくんだよ〜。」快調である。往復45分。汗びっしょり!体も軽くなり、痛かった腰も調子良し!毎日歩こうと決めた。

 4日経って連休に入った。1日目は親孝行で足の悪い実家の母を海岸までドライブに連れて行き、2日目は次男が孫を連れて来たのでそのお相手。すっかり疲れて果ててしまった。

 休みの日は我が家の庭でウオーキングの実践と決心していたのに、とても歩く元気は出てこない。五日目にして脆くも意思は崩れた。三日坊主よりはマシだが……?

 そして、今日は、庭の木製のテーブルでワインを半分開け昼食を取り、ほろ酔い気分で、木陰にサマーベッドを置き昼寝と洒落込んだ。すずらんによく似た白い可愛い花がベッドの周りに咲き、白と紫の花菖蒲、ちょっと草臥れた?水仙、深紅と緋色の紅葉が競って色づき、青い空に松と杉の緑がくっきりと映え、木漏れ日が目にやさしい。

 ああ〜極楽!ああ〜極楽!

 ウオーキングはスタジオに出勤してから又頑張るぞ!

 それでは又この部屋でお逢いしましょう。

2007年5月4日

 

八つ当たり

 

 2007年5月12日夜、その日は真夏を思わせる様な暑い一日だったが、私は寒さに震えていた。炬燵の中に首まで入り込んでそれでも悪寒と冷や汗とそして腸がよじれる様な痛みと戦っていた。

 福井市に啓蒙公民館という所があり、そこに私は大正琴の教室を持っている。その公民館の近くにもみじ児童館というところがあり、その日はそこでファミリーコンサートを開いた。
 昨年11月に県立音楽堂主催で「日本で福井にしかない弦楽器の音を子供達に聞かせて上げて下さい」という趣旨で、「アンサンブルヴェガ」のちびっこコンサートを開き大好評を博した。三寺さんは啓蒙地区の子供を中心とした皆さんにも聴いて頂こうという趣旨で開いたのだ。
 私はあまり乗り気ではなかった。3月から、秋のリサイタルの準備のため、生徒さんのお稽古用のアンサンブル曲の録音が続き、心身共に疲れ果てていたからだ。でも三寺さんの熱意に反対出来ずコンサートを開くことにした。
 コンサートはご近所の皆さんが入りきれないくらいいらして下さって好評であった。終了後メンバーは食事に出かけたが、私は疲れが溜まっていたので帰った。

 家で夕食をとる元気も無く休んでいると、夫が法事の料理を持って帰って来た。その日は夫の妹の姑の法事があり出かけていたのだ。大きな海老フライと焼きカレイだった。
 法事の料理を見たとたん『食欲』が湧いて来た。同時に『飲欲』も沸々と沸いてきた。冷蔵庫からビールを取り出し、美味しそうに海老フライを食べる私を見て「俺にもくれ」と夫が言ったが「いやよ!貴方は先方で御馳走を食べて来たでしょう。カレイだけなら、半分あげる。」と海老フライは一人で食べた。

 暫くして嫌な寒気がしてきた。お腹の様子もおかしい!そのうち症状はだんだん激しくなってきた。私は再び炬燵に潜り込んだ。コンサートで汗をかいたので、てっきり風邪を引いたものと信じ込んでしまった。

 腸が捩じれる程痛く、風邪とおぼしき症状は一晩中私を苦しめた。

 翌日の日曜日も症状は治まらない。風邪の菌め!! 断りもなく私の腸に入ったな!

 突然、三寺さんの暢気な顔が浮かんだ。だんだん腹が立って来た!携帯を取りにいって、又炬燵に潜り込み、寝ながら三寺さんに電話をした。

 『もしもし?西沢です。私、今、死にかけています。私は胆嚢を取り甲状腺癌になり、そして昨年は子宮癌にもなりました。左目も失明しています。普通の健康体ではありません。
 ここ数ヶ月録音で身もこころも疲れ果てています。だからコンサートの疲れで風邪を引いてしまいました。昨日から症状は良くありません。私の蝋燭の炎はもう残り少ないのです。私を大事に使って下さい。これからは仕事を選んで、必要大切と思う物だけを企画して下さい。今年のリサイタルで、三部の西沢純子オンステージは出来るかどうか分かりません』一方的に言うだけ言って電話をきった。
 八つ当たりをしたことで、体が少し楽になった。こういう時には、私はいつも三寺さんへの「八つ当たり治療法」で怒りを解消している。

 時々、反省はするが治す気は全くない!!

 症状もだんだんと治まった5日後、義妹から電話を貰った。

「お義姉さん!!。海老フライを食べて何ともなかったかしら?。実は、今保健所から12日の法事のお客様の中に食中毒の症状が出ていないかを調べるように連絡が入ったの!!。 件(くだん)の料理屋さんは既に4日間の営業停止処分を受けているらしいのよ!」

 冤罪????。 三寺さんの前髪の生え際がだんだん上の方にいくのは私のせいかも……?

 それでは又この部屋でお逢いしましょう。

2007年5月24日

 

 

うたかたの人生

 

 「行く川の流れは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとゞまりたることなし。〜あしたに死し、ゆふべに生まるゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。〜。」

 我が家の遠縁に当たる方のお葬式に行って来た。
 私がこの家に嫁に来た時、福井で披露宴を済ませると、今度は花嫁衣装のまま移動し、西澤家でも、在所の人達を集めて二度目の披露宴を行った。田の字に配置された和室の襖を、全部取り払っても足りないくらい、ぎっしりと詰まった人々の視線が私に注がれ、私はただ緊張して「末永く宜しくお願い致します」と小さな声で挨拶をした事が昨日のように思い出された。

 今日亡くなられた方は、その大勢の中でキビキビと立ち振る舞って手伝い、唯一私がその日、顔を覚えた人である。私に「披露宴が二度もあって疲れたでしょう。これからいろいろなことが有るでしょうけれど、辛抱して下さいね。」と、言ってくださった。大勢の人が、次から次へと挨拶に来られたが何も覚えておらず、其の方の言葉だけが妙に印象に残った。

 それから半年余りして、その方の娘さんが嫁入り前日に突然亡くなられた。今度は私が台所の手伝い方として出向いた。あのしっかりした人が、放心状態で遺体の前に座っておられた。一体何があったというのか…。正蓮花(嫁ぎ先の地名)の住人になったばかりの私には、何も分からず、言葉の掛けようも無く、ご遺体に手を合わせてから、その方に「お手伝いさせて頂きます。」と言って台所へ行った。

 その後、村の冠婚葬祭の手伝いでご一緒したとき、その方はすっかりお元気になられて、相変わらず笑顔でテキパキと陣頭指揮を取っておられた。

 私が大正琴を始めてからはほとんどのコンサートにいらして下さった。舅が亡くなって挨拶に行った時「長い間良く辛抱されました。ご苦労様でした。」と、やさしい微笑みで労って下さった。

 その方はご主人を早く亡くされ、複雑な家族関係であったらしい。しかしお顔にはそういう気配は微塵にも出されなかった。

 今日最後のお別れをした。お寺さんの読経の間、何故か方丈記の一節が浮かんだ。

 うたかたの人生…。

 幸せに見える人も不幸に泣く人も、皆等しく死は免れない。生まれた時から「死」に向かって生きている。どのように生き、どう死を迎えるかだ!

 私は今まで精一杯生きて来た。これは胸を張って言える!死ぬ時もそういって死にたい!

 ぼんやりいろいろなことを考えている間に、火葬場に着いた。

 おばさま!よく辛抱なされました。ご立派です。どうぞ安らかにお休み下さい…!!

 それでは又この部屋でお逢いしましょう。

2007年6月18日

 

北海道旅行 その1

 

 2007年5月下旬、やっと第18回リサイタルのお稽古用の録音が終了した。演奏する曲は総て7部〜9部のアンサンブルになっている。だから生徒さんは自分のパートを見ただけでは、全体のイメージが分からない。そこで建物で言えば、完成図を見せてあげて、「あなたは此処の窓の部分を担当して頂きます」と言えば、自分の役割がよく分かる。だから毎回、全曲を録音することになる。

 生徒さんのレッスン、諸々の会議、雑事、それらの合間に音楽監督で録音技師の三寺さんと時間を調整して録音する。これは大変な作業だ。

 それが終了した!!ばんざーい!!

 私はもう、ガス欠状態だ!どこか遠くに行きたい!

 三寺さんの留守を狙って、旅行代理店に行った!
 何故留守を狙うのか…?。それは、私は録音が終わったが、三寺さんにはこれから編集作業という気の遠くなる様なやっかいな仕事が残っているからだ。それを知っていて私は遊びに出かけるという後ろめたさがある。
 でも私はもう限界だ!ガソリンを補充してこないと次の仕事に掛かれない。この際少々の事は許してもらわなくちゃ。

 旅行には、妹と従姉妹を誘う事にした。団体旅行は自由がきかないから好きではないが、私は病気ではないかと思う程、方向音痴なので(同行の二人も同じ)やむを得ない。
 旅行社の受付で、「3泊4日、確実に実行する旅行はないですか?(参加人員が少ないと中止になる場合が有る)」と尋ねると、「6月27日〜30日、『北海道みどころ周遊4日間』というのがあります」とのこと。早速申し込んで来た。

 出発前日、三寺さんに「留守の間宜しく」と言うと、「楽しんで行っていらっしゃい。但し、無事帰ってくるように!最近飛行機事故が多いから」と言われた。

 今まで、三寺さんと諸々の話をしていて「この人は私より遥かに頭のいい人だな」と感じたり、シンセサイザーや種々の機材についても、売った方の楽器屋さんが「へえーこういう使い方もあるのですねー」と、感心する程使いこなす姿を見て「この人は秀才かもしれない」と思ったりした。県外の、行った事も、聞いた事もない町から、演奏依頼がきても、当日地図だけを頼りにちゃんと目的地に着くのを見て「この人は天才だ!!」と思った。

 その尊敬している三寺さんが「最近、飛行機事故が多いから…。」と言う。
 不安が過った。

 家に帰って夫から「頼むから生きて帰って来てくれ!!。」と言われた。

 何だか飛行機が落ちる様な気がして来た!!.

 仏壇に手を合わせて「どうぞもう暫く、私を生かしておいて下さい!!.」と祈った。出かける時も仏壇にお参りした。引き出しの中から小さな数珠を取り出し、腕にはめて出かけた。

 この続きは又次回に!!.

 それでは又この部屋でお逢いしましょう。

2007年7月8日

 

北海道旅行 その2

 

 旅行の続編を望む声が多く寄せられた。私のことだからさぞかし『「旅の恥」を撒き散らして来たに違いない!!。』と思う、皆様の「ご期待?」にお応えして続編を書くと致しましょう。

 福井駅東口を午前8時、大型バスは出発した。途中福武線の鯖江市神明駅で私の従姉妹を拾い、越前市(旧武生市)からも何人か乗られて、バスは高速道路に入り、いよいよ神戸空港に向けて順調に走り出した。
 神戸空港では兵庫県三木市に住まいしている私の妹と落ち合う事になっている。方向音痴の私はもう大阪に入ったのか、そろそろ神戸なのかさっぱり分からない。旅行日程表には空港に何時到着とは書かれていない。飛行機の出発時間のみ書かれている。添乗員さんから「すこし到着が遅れています。」と案内があった。12時40分頃だった。
 丁度その時、携帯を持たない妹から私の携帯に「今空港に着いた。」という連絡。私が「少し到着時間が遅れているらしい。ところで今、あなたは空港の何処にいるの?」と聞いたら、「公衆電話の前」と言うなり電話が切れた。
 アホか!(失礼)、何処で待ち合わせをしたらいいかを聞きたかったのに!。公衆電話の前にいるのは分かっている!!。能天気な妹はきっと100円硬貨1枚しか電話機に入れなかったに違いない。テレホンカードを使えっちゅうの!!(失礼)。 又、掛かってくるに違いないと携帯を睨みつけているが一向に掛かってこない。『神戸空港というのは広いのかしら?探せるかしら?』と心配しているうちに午後1時15分に空港に到着した。
 添乗員さんから、14時50分出発の30分前までに、荷物を預け、食事を済ませ、5番ゲートの前に集合すること、と案内が有った。私と従姉妹は急いで妹を捜した。見当たらない!!。1階、2階、3階、何処にも居ない!!。

 従姉妹が「もしかしてレストランで食事でもしているのでは?」と言うので二人で手分けしてレストランを覗いたが見当たらない。妹の航空券は私が持っている。仕方がないから先に荷物を預ける事にした。大勢の人が長蛇の列を作っている。その中にも居ない。後ろに並びながら、目は二人とも空港内を探しまわっている。私と従姉妹の順が回って来た。目は妹を探しながら、荷物の引換券を気もそぞろで無意識のうちに鞄の中に入れた。
 預け終わった二人は、又、あちこち探しまわったが居ない。「食事はお弁当を買って機内で食べましょう。ぎりぎりまで探してそれでも居なかったら、可愛そうだけれど置いていきましょう。」と話していたら、「おねぇさーん!!」と、呼ぶ声。妹が3階から嬉しそうに手を振っている。

「あんた!! 何処で何していたのよ!! こちらからは連絡の方法がないのだから、ひんぱんに電話くれなきゃだめじゃないの!! 普通入り口で待つのが常識よ!!ところで何処に居たのよ!!?」妹「レストランの奥で食事をしていたの。」「あほか!!(失礼)。私達が来るのを待つのが常識でしょう!」兎に角、妹の荷物を預けなくちゃと、思って私達は荷物預かりカウンターに走った。

 まだ集合時間まで20分有る。簡単に食べれる冷やしうどんを食べた。怒りながら食べた。私の予定では旅の始まりを祝して、豪勢な食事と生ビールで「カンパーイ!!。」と叫んで食事をする筈だった。それが冷やしうどんとは…。食べ物の恨みは怖いぞ!!。妹め!!。

 そそくさと気もそぞろに食事を済ませて搭乗入り口にいった。従姉妹と妹はスムーズに金属探知ゲートをくぐり抜けた。私が通ったら「ピッ」となった。係りの人が「金属類はお持ちでは有りませんか?」と尋ねた。思い当たらない。「いいえ」と答えた。「もう一度お通りください」。又、「ピッ」と鳴る。
 私は慌てて、つい「あのう…銀歯が入っていますが。」と、答えてしまった。係りの人がニヤリと笑った。…あぁ恥ずかしい!!。何という事!!。銀歯で乗れなかったらほとんどの乗客がペケだ。私の名誉の為に言わせて頂くが、飛行機は初めてではない。ヨーロッパ線にも搭乗したし、国内線にも何度か乗っている。

 ど、どうして…?。焦った…。思わずポケットに手をやった。鞄に入れた筈の携帯電話が入っていた。これだ!!。係りの人に預けて無事パス。やっとのことで機内の人となった。
 あぁやれやれ。これからお楽しみの旅行だというのに「ドッ」と疲れた。これから先の旅が思いやられる。

 では、本日はここまで。北海道珍道中の続きにご期待あれ!!。

 それでは又この部屋でお逢いしましょう。

2007年7月15日

 

北海道旅行 その3

 

 皆様から「北海道旅行顛末記」が面白い、面白い、と言われる。私にとっては、普段の私の在りの侭を書いているだけなのだが……、つまり普段の私が吉本系??。

 続編に入る前にちょっと感動したお話をさせてください。

 2007年7月21日土曜日。午後の「ヴェガ合奏団」の練習を終えて、近くの郵便局のポストに行く為に、九十九橋を渡っていたら、川縁で10人位の喪服を着た人達と1人のお坊さんがお経らしきものを上げていて、その後、小さな骨壺のようなものを1人の女性が優しく撫でると何か囁きながら、中のものを静かに少しずつ川に流していた。残りの方達は皆さん数珠を手に拝んでいた。何か崇高なものを見た様な気持ちにさせられて、私も橋の上から思わず一緒に手を合わせた。
 清々しい感動がこころに湧き上がった。私が死んだときも、この愛しい足羽川に遺骨を流してもらおうかしら…。

 さて!、忘れないうちに旅の続編を書きましょう。

 すったもんだの挙げ句、漸く、無事機内の人と相成った。
 私は窓際だった…と、言うより、機嫌の悪い私に遠慮して、妹が私に窓際の席を譲ったのだ。鼻息で窓ガラスが曇るくらい顔を近付けて、外を眺めていた。だんだん旅の嬉しさが込み上げて来る。
 飛行機が滑走を始め、フワッと浮き上がったかと思ったら、あっという間に、神戸の町並みが小さくなり、直ぐに雲の中に入ってしまった。私は高い所が大好きだ!。

 飽きもせず、霧の様な雲、もこもこの入道雲のような雲、向こうの方を飛ぶ飛行機などをじっと眺めていた。時々雲の割れ目から地上が見えた。山々であったり、平地であったり、入り江であったり、私に取っては短い2時間だった。
 やがて「新千歳空港に到着します。」というアナウンス。
 飛行機は着陸時が一番危ないらしい。私は左腕に掛けて来た数珠をそっと握り、座席の下の救命具や非常口をそれとなく確認した。しかし飛行機は滑るように見事に滑走して止まった。

 空港内で荷物受け取り場に行った。コンベアーの上を次々荷物が運ばれて来る。大勢の乗客の隙間から必死で覗きながら、自分の荷物の流れてくるのを待つ。やっと3人共自分の荷物を見つけ出した。バスに乗ろうと空港出口に向かったら、空港の制服を着た厳めしいおじさんが荷物番号と引換券の確認をしていた。ハッ!とした。引換券は何処に仕舞ったかしら?。

 あの時、妹を探すため(旅行その2参照)気もそぞろで、引換券のことはよく覚えていない。
 鞄のあちこちに手を突っ込んだら「あった!」良かった。
 しかし、従姉妹が探しあぐねている。
 他の乗客は全員バスに乗り込んで私達を待っている。妹は澄ましてバスに乗り込んで、旅馴れた様子で窓からこっちを見ている。あなたの所為でチケットが見つからないのよ…!!!。

 添乗員さんが私に近づいて来た。「すみません。もう少し待って下さい。ご迷惑をおかけします。」
 私は、妹を共に一生懸命探してくれた、従姉妹の傍を離れる事は出来なかった。5分程捜しまくり、漸く見つけた。針の筵(むしろ)の座の5分間は長い。

 「お待たせして申訳ありません」と、お詫びし乍ら、バスに乗り込んだ。あぁ、やれやれ!!。

 何はともあれ、札幌の奥座敷「定山渓ビューホテル」へとバスは走り始めた。

 いよいよ、北海道の旅の始まりです。(続く!!)

 それでは又この部屋でお逢いしましょう。

2007年7月23日

 

北海道旅行 その4

 

 初めの予定では、旅行その1、2ぐらいで書き上げるつもりが、計画もなくだらだら書いている内に、その3になってやっと北海道に着く羽目となってしまった。宿題を抱えているようで書き上げてしまうまで落ち着かない。さあー!続きを書くぞ!!。

 バスは夕刻「定山渓ビューホテル」に到着。大きく立派なホテルであった。さりげなくあちこちに置いてある外国製の調度品が素晴らしく、私達の部屋も和室なのに、窓際の畳敷き小部屋の椅子は、ルイ王朝時代のような和室には不似合いな椅子が置かれ、シャンデリアも可愛く素敵なもので、不似合いなのに私達を喜ばせてくれた。窓を開ければ、眼下は美しい渓谷になっており、3人とも歓声を上げて、北海道の澄み切った空気をお腹いっぱい吸い込んだ。
 夕食はバイキング。大きな食堂に沖縄料理から北海道料理まで中央にずらりと並べられ、それがどれも美味しく、「神戸の仇は定山渓で!!。」
(北海道旅行その2参照)と言う訳で私達は食べに食べた。私は「…ドレスが着れなくなったらどうしょう…?!。」と心配しながら、デザートの小さなケーキは3個も食べた。3人とも大満足!!。

 お腹の消化が治まってから、屋上の大露天風呂へと行った。浴室内のやや小さなお風呂で暖まってから、階段を上っていよいよ星空の見える屋上露天風呂への入り口のドアを開けようと、押したり引いたりするが開かない。右足を右側のドアに付けて、左足を後ろに引いて、渾身の力で左ドアを引っ張っていたら、湯船に浸かっていた方が、しごくのんびりした関西弁で「奥さん!10時からは露天風呂は男はん専用ですよ!階段の所に書いてあります。」と声をかけられた。えー!!。びっくりして階段を下りたらちやんと書かれてあった。何という事、ドアが頑丈で良かった!!。
 万一、私の馬鹿力でドアが壊れて、原型の崩れ欠けた人間離れした「北京原人」のような、女3人、のこのこと、男性達が入っている所へ出かけていったら、彼らはどういう反応を示した事でしょうか?ご想像下さい。考えると気が遠くなりそうです!!。

 夜中、男風呂に入った夢でも見たのか、私は従姉妹に2回蹴飛ばされて目が覚めた。朝6時半朝食、7時半出発。小樽市内観光へと向かった。
 小樽運河、ガラス館見学とあるが時間は全部で40分間、バスが止まっている所から運河の橋まで片道7〜8分、到着後急いで記念写真だけ撮って今度はガラス館に向かう。10分程店内を眺めてバスに戻らなければならない。観光に浸る時間などまるでなし。ここに3時間位いたかった。それくらい魅力の有る街だった。
 次は旭川動物園に向かった。途中、ハイウエイを走るが、道路は私達専用道路みたいに前も後ろも車無し。車窓に見える景色は広い畑の中にぽつり、ぽつりと一軒家の農家が見えるだけ。日常生活は、買い出しはどうしているんだろう…と心配に成る程家がない。ながーく走って旭川動物園に着いた。1時間半も時間があったが見るものはホッキョクグマ以外私にとって魅力有るもの無し。
 その後パッチワークの丘を眺めながら、「フラワーランドかみふらの」で記念写真を撮り、休息を取りながら、阿寒湖温泉へ。夜8時30分位に到着。この日の走行距離550キロ。でも窓から見える広大な大地に魅せられて、それ程疲れは感じなかった。
 ホテルの前はいろいろな土産店が並び私達は見て歩くだけで充分楽しかった。ひとしきり土産店を覗いて、さあホテルに戻ろうとしたら、何と!玄関の鍵が掛かっている。えー!?、時間は11時!!。まさかホテルに門限があるなんて!。閉め出されてたまるか!と、私は此れ又、渾身の力でドアを横に開こうとした。
 「開かぬなら開かせてみせる私めが!!。」と呟きながらドアと格闘していたら、あちこち入り口を探していた従姉妹から「純子ちゃん!入り口はこっち!」と呼ぶ声。数メートル先のその方へ行ってみたら、コの字に奥まった前庭の有る立派な玄関に赤々と灯がともされていた。じやー!さっきのは何?従業員さんたちの出入り口?それならあまりに立派すぎる。間違えないようにひっそりと作ってくださいよね!!。

 その夜は、従姉妹に蹴飛ばされないように妹を従姉妹の横に寝させた。ところが翌朝妹から「お姉さんのいびきで寝れなかったよ!!。」とブーイングが出た。私は白雪姫のような寝姿だと思っていたのでショックだった。やはり疲れていたのかもしれない。

 朝5時に起きて阿寒湖を散歩した。カラリとした涼しい湖からの風が心に染み渡った。6時朝食、7時出発。摩周湖に向かった。「霧の摩周湖」と言われるくらい真っ白の霧で何も見えなかった。オソンコシンの滝を見て知床展望台を周り、北きつね牧場へ行った。放し飼いのきつねは上向きの目でじろりと私達を眺め、いかにも狡そうな顔だった。童話できつねがあまりいい役で登場しない訳が分かる気がした。流星、銀河の滝へ行った。ここも素晴らしかったが時間は15分程しかもらえなかった。パック旅行の悲しさよ!!。その夜は層雲峡温泉に泊まりいよいよ旅も終わり。

 翌朝は千歳空港へ行き、そのまま帰りの人となった。無事関西空港に着き、兵庫県三木市に帰る妹を残し、私と従姉妹は福井から迎えに来たバスに乗り込んだ。出発するバスに妹はいつまでも、いつまでも手を振っている。

 妹はサラリーマンの亭主に嫁いだが、間もなく夫が脱サラし、商売を始めた。のんき者の妹にはそれなりに苦労が有った事だろう。妹の姿がだんだん小さくなってそれでも未だ手を振っている。いつもこれがたまらない!

 私は実家まで車で20分ぐらいの所に嫁ぎ、いつでも親に逢えるし逢って来た。妹は盆と正月にしか帰れないし私とも逢えない。神戸空港であんなに怒らなければ良かったとチクリと後悔する。振り返ると小さくなった妹が未だ手を一生懸命振っている。「さよなら!元気でね!又、お盆に待ってるからね…。」

 楽しかった旅も終わりは少しセンチメンタルな気分になって終わった。

 写真が出来上がって来た。妹に早速送った。お礼の電話が有り「又、行こうね!!」というと「本当!!嬉しい!!」と、弾んだ声。その声を聞いて、やっと旅が終わった気がした。

 それでは又この部屋でお逢いしましょう。

2007年7月29日

 

ローマは一日にしてならず

 

 蝉の声が静かになった。寝付きの極端に悪い私には、ジージージーと何百匹という、アブラゼミの鳴き声が耳に纏わり付き、寝苦しく、とても夏の風情を楽しむという気にはなれないでいた。
 それが、お盆が済み、一雨来た途端静かになり、鳴き声が蜩(ヒグラシ)、蟋蟀(コオロギ)、鈴虫に代わった。呆れる程自然は正直である。

 それにしても今年の夏は暑かった。お盆休みは、外に出かける気にもなれず、実家に顔を出した以外は、只、ゴロゴロと体を持て余して寝盆(寝正月的表現?)で過ごした。夫が大切にしている苔は茶色に干上がり、松の木も元気が無い。

 それが一雨降った途端、苔は、たっぷりと雨を吸い込み、青々と生き返り、松も元気を取り戻した。
 水分を含んだ苔の上を吹き渡ってくる風は、肌寒いくらいで、鈴虫の声が冴え渡る我が家に、突然秋が訪れた感がする。

 しかし、体の方は猛暑疲れが治まらず、10月21日のリサイタルに向けての準備がたくさん残っていると言うのに、なかなか走り出せずにいる。

 私事でおこがましいが、今年のリサイタルの会場で、この「コーヒーブレイク」を出版発売予定で、今、その準備に掛かっている。ステージ上の『私』ではなく、素顔の有りのままの『私』を知って頂きたいからだ。
 既にこの部屋でお読みになっていらっしゃる視聴者の皆様も、是非お手元に、この本を置いてやって下さい。

 扨、寝盆でだらしなくたるんだ顔を、引き締めるべく、26日の日曜日、私は、厚手のタオル3枚を濡らし、順々に電子レンジで暖めて、顔を蒸し上げた。「熱い!!。」と思ったが、その方が毛穴が、より開いて、顔を充分に蒸し上げて美しくなるに違いないと思い、タオルが冷めて来ると、はい次!!、はい次!!と、熱さに耐えながら、延々と30分間、顔を蒸らし続けた。

「どんなに美しい肌になったことかしら?」と、いそいそと、洗面台の鏡を覗いてびっくり仰天!!。額とほっぺたが真っ赤に火傷を負っていて、どう見ても志村けんの「バカ殿様」か「おてもやん」の顔になっている。慌てて水で冷やしたが、治まらない。そこで、ナイロン袋を何枚も重ね、氷と水を入れ顔全体が冷えるように寝そべって顔に載せる事3時間余!!。

 火傷は赤色から濃いピンク色になったが、それ以上は中々色が薄くならない。幸い、翌日の月曜は夜の教室があるだけだ。日中は肩凝りの針治療日になっているが、これは休むしかあるまい。冷やし続ければ翌日の夜までには、何とか治まるに違いない。
 月曜日、ピンク色は、少し治まったが、フアンデーションを厚めに縫っても、一杯お酒が入って、頬が濃いめの紅を差したように、ピンク色が少々色っぽい!!。まあ此れなら生徒さんにはバレるまい。一日で肌を美しくしようと思ったのが間違いのもと!!

「ローマは一日にしてならず!! 。」である。

 それでは又この部屋でお逢いしましょう。

2007年8月31日

 

オーデション前

 

 第18回スタジオリサイタル(2007年10月21日 福井市文化会館)迄1ヵ月を切った。それなのに私ときたら、先程からボーッと老眼鏡の上から更に天眼鏡で我が顔を拡大し、鏡をみながら、「…肌色に艶が無くなって来たなぁ…。きめ細やかで自信作だった我が肌も年相応に粗くなって来たなぁ…。あ〜あ〜…。」と、能天気にため息をついている。

 要するに緊張感が無く、こころが弛んでいるのだ。最大の行事であるリサイタル迄、1ヶ月を切っていると言うのに、何と言うだらし無さ!!。8月の余りの猛暑と9月の異常な残暑に、脳味噌が茹で上がり過ぎたのだ。

 気合いだ、気合い!!。

 大勢のお客様がこのリサイタルを楽しみに待っていて下さるのだ。

 リサイタルはオーデションと同じなのだ。一度でも失敗してつまらないステージをすれば、お客様は二度と足を運んでは下さらない!

 今年は昨年開発した世界に類を見ない新型大正琴「アコースティック大正琴ヴェガ合奏団」の演奏を2部で行う。
 総勢35〜6名が、弾き手側の出す音を、そのまま空気を振動させて聞き手側に伝わる、つまり同じ音色を共用する演奏会なのだ。大正琴にちゃんとした共鳴箱を設定した事によって。素晴らしい音色、素晴らしいアンサンブルに仕上がって来た。自画自賛になるが、これは誇っても良いと思う。

 うーむ……!!!。

 此処迄書いたら、気合いが入って来た。体の芯がめらめらと燃えて来た。今から練習だ!!。
 わざわざ日曜に足をお運び戴いたお客様に絶対に後悔はさせない!!。
 来年も又、楽しみに思って頂ける演奏会にしてみせる。

 よーし!やるぞ!!。

 ところで、時折、勝気な(乱暴な?)文章なぞ、書いたり致しますが、私の正体を明かしますと、至って気が弱く、ノミの心臓で、誰かに支えてもらわなければ生きていけない程か弱く、且つ可愛い女なのであります。

 尤も、私の周りの人達は、だーれも信じてはくれませんが…………!?。

 一応、念のために申し述べておきます。

<ヴェガ誕生記念コンサート 動画あり 2006.7.8>

 それでは又この部屋でお逢いしましょう。

2007年9月21日

 

支えられて…

 

 2007年9月28日、「コーヒーブレイク」の待ちに待った初版本が印刷屋さんから届いた旨、美容院にいる私に三寺さんから連絡が有った。私のホームページのサイトの一つに、その時々の気持ちを書くコーナーが有る。私はエッセイと思って書いているのだが、音楽監督の三寺さんに言わせると雑文コーナーらしい。すこーし傷つく!

 その「コーヒーブレイク」のコンテンツが、開設以来4年半で大分溜まった。「ホームページを見ていない多くの人に、素顔の私をもっと知ってもらいたい!!。よし、本にして出版しよう!!」と、自惚れ屋の私は、気楽に考え、即、行動に出た。即決即断が私の長所であり、短所だ!
 しかし…数日後、本の梱包が山積みにされた階段を見ると「私ごときが本を出すなんて、すこし、おこがましかったかしら?…」と、しおらしい気持ちになって来る。

 だが、もう出来上がってしまったのだ!売らなければならない。

 新聞社に出向いて、「第18回西沢純子大正琴スタジオリサイタル」と「コーヒーブレイクの本」の宣伝をして来た。いつもなら、記者の方に話をしているうちに、自家発電機にスイッチが入って弁士のごとく舌が回るのだが、何故か迫力が出ない。

 リサイタルまで10日余りしか無い!なのに、気持ちが燃えてこない。いつもなら今頃競走馬がゲートに入って、出走の合図を今か今かと興奮しながら待ち構えている状態だ。
 ところが、こころも体もすでに疲れきって練習にも身が入らない状態だ!

 こんな事ではお越し下さるお客様に申訳が無い。気分転換をしようと、朝風呂に入った。
 窓を全開した。雨脚が生い茂った木々の葉先から水鉄砲のように屋根を濡らし、雨樋を伝って勢い良く地面に流れて来る。浴槽に浸かりながら、窓に寄りかかり、ぼんやりと眺めていた。

 突然、電話が鳴った。誰も出る気配がないので、急いでバスローブをはおり、受話器を取った。病院の管理栄養士をしている生徒さんからだ。

 「先生!院長夫人がコーヒーブレイクの出版祝いに10冊買わせて下さいとの事です。」という連絡。いつも何かと応援して下さる方だ。新型大正琴ヴェガ制作にあたっても随分とご支援頂いた。

 続いて又電話。同じく生徒さん。「先生!コーヒーブレイク面白いですね。娘が読んで笑いこけていました。知り合いの方に差し上げたいのでもう一冊買わせて下さい。」と言う知らせ。

 胸の奥から熱い物が込み上げて来た。受話器の傍に置いてあったリサイタルのプログラムの協賛者名簿を見た。

 たくさんの方達からご協賛頂いている。有り難い!!この方達を裏切ってはいけない。リサイタル迄、残り少しだ!頑張ろう。頑張るしか無い!!

 私は「大正琴奏者西沢純子」なのだ!!

 それでは又この部屋でお逢いしましょう。

2007年10月8日

 

願えよ、さらば叶えられん

 

 2007年11月3日、私は炬燵に潜り込んで、風邪の症状からくる寒気と戦っていた。10月21日のリサイタルを好評裡に終えることが出来、その後は例年のごとく、各公民館主催の文化祭に出演し、11月4日の鯖江市河和田公民館主催の文化祭が終われば、ひと休み出来る…。“後一つ!”、と思った途端、風邪を引いた。思うのが早すぎた。

 いつもはリサイタルの2日前になると、緊張と興奮のし過ぎで、必ず風邪を引き、熱のあるまま、ふらふらの最悪状態で舞台を務める。だから一昨年のリサイタルの前には、スタジオの近くの新田胃腸科 放射線科病院で、「先生!私はリサイタルになると必ず風邪を引きます。だから風邪の菌の侵入を防ぐ為に風邪のお薬を下さい。」と、新田先生にお願いした。
「西沢さん、念のためお聞きしますが、今は風邪を引いてはいないのですね?」と、『先生』。「はい!」と元気よく『私』。「あのね、薬と言うものは、風邪を引いている人が症状を抑える為に飲むのです。いいですか!風邪を治すものではないのです。飽くまでも、症状を和らげる為です。まして、風邪も引いていない人に、薬は出せません。」と、藁(わら)をも縋(すが)る心算(つもり)で真剣に訴える『私』につれない返事。
「でも先生!薬を飲んでおけば、風邪の菌も、私の体に侵入しにくいのではないですか?。」、「そんな事は有りません。」、「でも、飲んでみなければ分からないのでは有りませんか?。」、「有り得ません。」

 私はこの新田先生を名医と尊敬している。私の甲状腺癌を発見して下さった先生だ。新田先生の紹介状を見た甲状腺専門の先生が「良く発見出来ましたね…!」と、感心されるくらい、喉の奥まったところに癌が出来ていたのを、発見して下さったのだ。
 その時も風邪薬を貰いにいったら、私の咳の症状から 疑問を持たれ「CT」を取り甲状腺癌が見つかったのだ。私の命の恩人である。

 その先生が、風邪を引いてもいないのに、薬を飲んではいけない!と、おっしゃる。仕方なく諦めたが、リサイタルの日は、やはり風邪に苦しんだ。ところが、今年は初めて、風邪も引かず万全の体制で、本番を迎える事が出来た。珍しいなー…?、と思っていたら、今頃やっぱり風邪を引いた。翌日の4日には河和田へ演奏に出かけねばならない。市販の薬を飲むが治らない。風邪で辛い症状など噫(おくび)にも出さず、河和田教室の生徒さんを率いて演奏した。これがプロとしての務めだと思うから…。

 その後ゆっくりと風邪は治りつつあるが、100%治ってはいないまま、今日(11月6日)に至っている。

コーヒーブレイクその1 背中に薄ら寒さを感じつつ机で事務仕事をしていたら、福井県内最大手の勝木書店外商部の方から電話があった。
 内容は、福井市立図書館から、私の『コーヒーブレイク その1』の納入依頼が有ったので、2冊発送して欲しいとのこと。
 実は自分で書くのもおこがましいが、この『コーヒーブレイク その1』の本は大変評判が良い!。リサイタル会場で発売し、購入して下さった方々から、沢山お褒めのお言葉を頂戴している。

 私は、図書館に贈呈させて頂くと答え、ついでに、私の『コーヒーブレイク その1』を、勝木書店さんで扱ってもらえないかと話したら、担当の方を紹介して下さった。
 そこで、早速本を持って先方へ伺った。簡単な打ち合わせの後「いいですよ!」と、拍子抜けする程あっさり快諾して頂いた。私は、舞い上がる程嬉しくなった。

 実は、この本が出来上がった時、何とかして書店に置いてもらえないか?!…、置いてもらう為には、どうすべきか、思案していたのだ。
 それが先方から舞込んで来るとは…!!。県内はもちろん県外のチェーン店にも置いて下さると言う。置いて頂ける書店名が分かり次第、このホームページでご案内致します。

 皆様、その節は、是非、書店迄足をお運び下さいませ。応援の程、宜しくお願い致します。

 薄ら寒かった背中が興奮で熱くなってきた!。
「願えよ!、さらば、叶えられん!。」である。

 でも……私は興奮が度を越すと風邪を引くことになっている……??。風邪が、ぶり返さねば良いが……?。

 それでは又この部屋でお逢いしましょう。

2007年11月6日

 

父が生きていてくれたなら…。

 

 私の初出版本『コーヒーブレイク その1』が、福井県内最大手の勝木書店に置いて頂ける事は、前回書いた通りです。県内の支店は勿論、千葉県、神奈川県、石川県のチェーン店にも置いて頂ける事になった。詳細はここをクリック

 我が子が、思いがけない出世をしたような誇らしい気持ちだ。私は、我が子のようなその本が、書店でどのように並べられているのか、見に行きたくて、行きたくて仕方が無い。
 察した三寺さんが「にやり」と笑いながら「西沢さん!ちょっと勝木書店本店まで行ってみようか!」と言ってくれた。もちろん異論はない。「行きます!」と答えて、何故か、化粧を入念にし直す。
 車が駅前地下駐車場に入る頃には、もう既に私の心は極度の緊張状態!地下駐車場のエレベーターで地上に出たら目の前が勝木書店の入り口。三寺さんはそこから入り、私は電車通りの西武デパート側から入った。何となくうつむき加減で、他人に目が合わないようにお店に入った。
 店内は結構混んでいた。どうせ、目立たない隅の方にちょこんと置いてあるに違いないと、隅の方から探した。無い!…?。何処にも見当たらない。まさかと思いつつレジのすぐ傍まで来た。

 ここに有った!しかも平積みで、よく目立つではないか!

 迷子の我が子を探し当てた様な感激の気持ちで、「ぼぉーっ」と立っていたら、横から手が伸びて来て、三寺さんが一冊取り上げ、黙ってレジに買いに行った。私は本の傍を離れ、感激覚めやらぬまま書店を出た。車に乗り込むと、三寺さんから袋に入ったまま本を渡された。私は「これで一冊売れた…。」と思いながら、愛おしく胸に抱いた。

 家に帰ってから買って来た本を仏壇に供えた。その日は息子の帰りが遅かった。寄り道でもしているのかな?と思った途端電話が有った。小声で、「お母さん?僕今、勝木書店本店のお母さんの本の前にいるの。お母さんの本、レジの傍に平積みにされてるよ!すごいよ!今から帰るからね」と、言うなり電話が切れた。
 帰って来た息子の手には勝木書店の袋があり、私の本が入っていた。嬉しかった。仏壇に供えてある本を、息子が買って来た本と取り替えた。父が生きていてくれたなら…。

 父は新聞に私の記事が出る度に、福井駅に行って、私の記事の載っている総ての新聞を買い取り、日本全国の戦友達に送っていた。

 その父が亡くなった翌年、私は文化芸術賞2005年2月 詳細はここをクリックを頂き、今年は本を出版した。もう少し生きていて喜んでもらいたかった。父の事なら、きっと毎日県内の勝木書店巡りをして、本の売れ行き具合を調べる事だろう。舅も晩年は私の応援者になったので、毎日春江の勝木書店に通うに違いない。二人とももう少し生きていて欲しかった。

 夫も初めこそ、自分の事を書かれて恥ずかしがっていたが、今では知人に自慢している。ホームページを見ていて下さる方々からも、注文を頂いた。囲りの人達の暖かい心に包まれて、私は本当に幸せ者だ。

 外は氷雨が降っているが、私の心は「ほっかほか」と暖かい。

 それでは又この部屋でお逢いしましょう。

2007年12月1日

 

緋牡丹お純

 

 我が家のリビングは南側全体がガラス窓になっているので、冬でも、日差しの強い日は温室のように暖かく日中はストーブが要らない。片隅に置いてあるパソコン机の回転椅子を南側に向けて、私はゆっくりとコーヒーを飲んでいる。
 十日くらい前迄、庭全体を落葉樹の命尽きた葉が覆いかぶさり、夫の自慢の苔は見事に枯れ葉に隠されて、庭は茶色一色になっていた。その枯れ葉を、夫は朝5時から公民館出勤間際迄、来る日も来る日も素手で取り続けた。大きな栗の葉っぱから、小指の爪の半分程の小さな紅葉の葉まで、根気よくひたすら取り続けた。落ち葉が腐ると、その下の苔に影響するのだ。その結果、再びビロード色の苔の絨毯を敷き詰めた庭に甦った。つい一ヶ月前迄は、窓一面が、イチョウや紅葉で狩野派の画家が描いた錦絵の世界だったのが、今は、裸木と松と苔の深々とした緑の「寒そうな冬の絵」になっている。
 しかし、それはそれで又、趣が有って美しい。コーヒーを飲みながら庭を眺める時間に私は一番幸せを感じる。教室は今年の分はすべて終了した。

 今日はゆっくりスタジオに行けば良い。ふぅーっと深い息をして私はゆっくり立ち上がった。
 お風呂が沸いている頃だ。朝風呂の贅沢さに少し後ろめたさと幸福感を感じながら、浴槽に身を沈めた。いつも天気の良い日は窓は全開にして、露天風呂の気分を味わう。浴槽の縁に頭を持たせて今年一年を振り返ってみた。

 よく働いたと思う。私も生徒さんも良い演奏をした。
 満足感が体を満たした。

 その時、小さな竜巻でも起きたのか、風と共に窓の格子をくぐり抜けて落ち葉が2〜3枚湯船に浮かんだ。柿の葉と緑色のままのあおいの葉と未だほんの少し赤みを残している紅葉の葉だ。
 私はそれを左腕に並べた。まるで入れ墨のようだ。途端に私は「緋牡丹お純」の気分になった。来年に向かっての意欲、闘志が湧き起こって来て、高倉健さんの歌が自然と口から出た。

「義理と、人情を、はかりにかけりゃ、義理が、重たい、男の世界〜…〜唐獅子牡丹。」

 いい気持ちだ!
 3番迄歌っていたら湯当たりして、逆上(のぼ)せて来た。湯船から上がったら、体がふらふらし、頭がぼおーっ!として来て、額から汗が滝のように流れ落ちた。脱衣室までやっとの思いで歩いたが、その後意識がだんだん遠のき、数十秒間貧血を起こし、足拭きマットの上にそのまま仰向けに寝てしまった。
 何とも情けない「緋牡丹お純」さんである。これは恥ずかしくてとても他人に言える事ではない!

 それでは、又、来年この部屋でお目にかかりましょう。

 皆様に取って来たる年が良い年で有りますように…。

2007年12月29日

 

総合目次ページ

2003年制作
 徒然なるまま

2004年制作
 15周年記念リサイタル

2005年制作
 文化芸術賞受賞
 

2006年制作
 ヴェガ誕生コンサート
 

2007年制作
 エッセー集出版

2008年制作
 初めての指揮者体験

コーヒーブレイクが、1冊の本になりました。
 <2007年10月発刊

詳しくは、ココをクリック!

エッセイ集コーヒーブレイクその1

 

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大正琴奏者西沢純子の部屋
JAPAN player Nishizawa Junko's Room

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2008.3.3 UpDate